戻 るかまいしnetトップ
モノづくりDNA 第2回横山久太郎


 久太郎は安政2年(1855)10月10日、遠江国磐田郡久務村大字村松(現在の静岡県袋井市)の畳表仲買いの横山源七郎の長男として生まれました。久太郎7歳のとき父源七郎と死別し、9歳のときお寺の学僕となったが、13歳のとき実業によって身を起こすことを決意し、鉄物商山田商店の手代として働くが主人はあまり商売熱心ではなく、明治8年春久太郎19歳のとき家業の衰運を察し暇を願い出る。引き止められたが退職金10円を手に上京する。


 上京した久太郎は「鉄屋」主人田中長兵衛を訪ねました。長兵衛は当時、軍の糧食供給と鉄材の調達に当たっていた政府の御用商人でした。長兵衛は同郷人でもある久太郎を雇ってくれました。久太郎はみるみる頭角を現し、3年後の明治11年には横須賀支店の支配人となり長兵衛の次女茂登子と結婚しました。


 久太郎は横須賀支店で造船材料の輸入を担当していて高価な鉄材の輸入に疑問を持ち始めていました。
 その頃釜石は御雇外人ビヤンヒー技師の指揮のもと、明治13年9月官営製鉄所が完成した。
大規模高炉2基をはじめ鉄道などの近代的な設備を備え操業を開始したが、わずか97日間の操業で頓挫した。明治16年、その官営製鉄所の不用品の払い下げに際し御用商人の田中長兵衛に白羽の矢が立てられた。長兵衛は断ることが出来ず久太郎とともに釜石へ向かった。官営製鉄所は政府が巨費を投じ最高水準の技術でも失敗した事もあり、設備の払い下げをする者があっても復興をしようとする人は居ませんでした。それは長兵衛も同じでした。
 釜石に着いた長兵衛と久太郎は荒廃した官営製鉄所に唖然としました。解体と運搬の費用を試算してみると3万円の赤字になることが分かりました。以前から鉄材の輸入に疑問を持ち製鉄業の夢を抱いていた久太郎は復興を長兵衛に懇願しました。無謀とも言える申し出に長兵衛は当初反対しましたが久太郎の熱意に折れ、製鉄所の復興を決意した。


 久太郎は実験炉として橋野高炉と同じサイズの小型高炉を築造しました。操業主任に高橋亦助、機械設備主任に村井源兵衛を地元から採用し、操業を開始しましたが操業はうまくいかず鉱石と木炭の配合を変えるなど幾多の試みの甲斐もなく1年半が過ぎ、操業は46回を数え資金も底をついていました。久太郎は東京の長兵衛に呼び出され操業中止を言い渡されました。久太郎が不在の間、後を任された高橋亦助は2度操業を試みるが失敗に終わった。久太郎からの「設備の一切を片付ける準備をしておくように」との一報に高橋亦助は職工らに終焉を告げる。しかし、職工は「食べるものさえあれば賃金はいりません」と願い出る。明治19年10月16日久太郎が不在の中、49回目にして最後の操業が始まろうとしていた。職工頭の進言により今まで悪鉱として捨てていた赤みがかった鉱石を使った。操業を開始し煙突から煙が立ちその後湯口から真っ赤な鉄が流れ始めました。「成功だ!」あたりは歓喜に包まれました。のちにこの日は新日鉄釜石製鉄所の創業記念日となりました。吉報を聞いた久太郎は釜石に駆けつけ高橋亦助と抱き合って成功を喜び泣きました。


 明治20年3月、政府から一切の払い下げを受け、同年7月、釜石鉱山田中製鉄所を創立しました。初代所長には久太郎が任命され釜石製鉄所が本格的に運営されることになりました。同年10月大橋に第3高炉を、22年には鈴子に第4高炉、23年には大橋に第5高炉、24年には鈴子に第6高炉、26年には栗橋に第7高炉を新設しました。同年、治金学の第1人者野呂景義を顧問に、その弟子香村小録を主任技師に迎え、官業製鉄所の失敗以来、12年間風雨にさらされていた25トン高炉を改修しました。釜石の銑鉄生産は明治27年には13,000トンとなり、全国生産の65%を占めるようになりました。


 久太郎は製鉄以外でも釜石のために活躍しました。明治29年6月15日の夜、幾度かの地震の後、雷のような音とともに津波が押し寄せたのです。多くの家屋が損壊し、製鉄所も被害に遭いました。久太郎は工場を開放し炊き出しをして救援活動に当たりました。
 また、明治41年には陸路が不便だった釜石に三陸汽船会社を設立し社長に就任、明治45年には釜石電灯会社を設立し、県内では盛岡市についで2番目に電灯がともりました。大正4年には岩手軽便鉄道が設立され、久太郎は顧問に就任しました。花巻から遠野の仙人峠駅(現在の国道283号線仙人トンネル遠野口付近)までと大橋から鈴子まで鉄道が敷設されました。


 久太郎は大正6年ごろからめっきり衰弱していました。大正8年春、何度も慰留されましたが所長を退き東京にて療養のため釜石を離れました。大正10年3月3日闘病の甲斐もなく「かまいし」の一言を最後にこの世を去りました。享年67歳。田中鉱山株式会社は社葬をもって偉大な功績にむくいました。


 国が最新鋭の設備と最高水準の技術をもってしても成し得なかった官営製鉄を、貧しい畳表仲買いの倅にして丁稚奉公上がりの製鉄の素人が苦労しながらも49回目で偉業を成し遂げた。それに理解を示し資金を提供した主人にして義理の父でもある田中長兵衛もすごいと思う。
 何事もすぐあきらめてしまう昨今、釜石には久太郎や高橋亦助らの精神が息づいていると信じたい。


参考文献  
岩手東海新聞社 釜石物語 横山久太郎伝
菊池  弘著 風雪に舞う 釜石地方人物伝
半沢 周三著 日本製鉄事始 大島高任の生涯

 




Copyright (C) 2005 Kamaishi net. All Rights Reserved.