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モノづくりDNA 第1回大島高任


 幕末の日本最大のコンビナートを始め、鉄の都として栄華を極めた釜石の偉人たちを私なりにまとめてみることにした。
 まずはじめに鉄都釜石の礎を築いた大島高任の功績を追ってみた。


 高任は文政9年(1826)5月11日、南部藩の侍医・周意の長男として盛岡に生まれました。幼名は文治、後に周禎、総左衛門、明治2年43歳のとき高任と改名。大島家は代々馬医として南部藩に仕え、父周意は南部藩奥医師として仕えました。高任は17歳から医学を習得するべく江戸にて著名な蘭学者、箕作阮甫に学ぶ。21歳の時長崎にて医学修業中、藩命に従わず、西洋流兵法、砲術、採鉱、精錬を学ぶ。そこでヒュゲエニンの冶金学の技術書「鉄熕鋳造篇」の翻訳を手掛ける。


 嘉永6年、その功績が水戸藩御用人藤田東湖の目にとまり水戸藩主徳川斉昭から招かれ反射炉を那珂湊に築造する。その際、徳川斉昭は高任の才能を見抜き水戸藩は300石で召し抱えようとするが220余年の臣籍の恩義が盛岡藩にありと言って辞退。安政2年11月に反射炉完成。モルチール砲鋳込み、試射に成功。だが、砂鉄銑を原料としては大砲鋳造には適さず、柔鉄(鉄鉱石による高炉銑)を求めて盛岡藩の釜石・大橋へ。安政4年(1857)3月、貫洞瀬左衛門の出資で、大橋に洋式高炉一座竣工。11月26日火入れ、12月1日初出銑に成功する。


 ヒュゲエニンの技術書にある小型の丸フイゴでは送風量が足りず、大島は、地元の鍛冶職の角型フイゴを応用。角型の大きなフイゴにして操業は著しく向上水戸へ2700貫余(約10.12トン)の高炉銑を送る。水戸はこれを用いて良質の大砲を鋳造。 ヒュゲエニンの技術書を基にしながらも地元の技術を取り入れた高任は大橋高炉を洋式高炉とは呼ばず日本式高炉と呼んでいたそうです。


 その後大橋に計3座、橋野に3座、佐比内に2座、栗林、砂子渡に各1座の計10座*を築造し、幕末において日本最大のコンビナートを形成した。


 文久元年、高任は同志18名と盛岡に洋学の日新堂創設。砲術、精錬、英語、物理、化学など藩士に教える。生徒に新渡戸稲造、田中館愛橘。高任は総督。文久2年には箱舘(函館)に抗師学校、明治4年には高任の進言により工学寮(後の東京大学工学部)が創設される。この年の12月には自らも岩倉使節団に随行してアメリカ、イギリス、フランスを渡り、ドイツではヨーロッパ最古の鉱山大学フライベルク大学に留学(後に長男道太郎と二男専次郎も留学)した。


 明治7年釜石鉱山の官業決まる。官営製鉄所の建設をめぐり御雇外人ビヤンヒー技師と意見衝突。ビヤンヒー案は鈴子に大規模高炉を建設し鉄道を敷設。一方高任案は大只越に中規模高炉を複数建設し運河を建設。政府は高任案に傾くが御雇外人を立ててビヤンヒー案を採用する。もし、高任案が採用されていれば釜石の景色はだいぶ変わっていたと思います。明治8年、高任は釜石を去る。高任50歳。その後官営製鉄所は失敗に終わる。


 小坂鉱山をはじめ東北の鉱山局長を歴任、佐渡の鉱山長も務める。明治28年、70歳で隠居、家督を道太郎に譲る。明治30年、那須野葡萄酒を市場販売。本格的な外国種によるワインを醸造するなど隠居後も多岐にわたり活躍。明治34年3月29日76歳にて永眠。


 青年期から30代前半まではスポットライトを浴びたが30代後半からは数奇な運命をたどる。洋式高炉の操業に成功したものの水戸では安政の大獄で徳川斉昭が謹慎を受け反射炉を閉鎖。後に水戸天狗党の乱で破壊される。維新後も官営製鉄所の建設をめぐり屈辱的な待遇を受けてしまう。
 しかし今までに釜石をこんなに大きく変えた人はいただろうか。高任が釜石に着目しなければいまだに半農半漁の街だったと思う。でも栄華を極めた釜石も半農半漁の街に戻ってしまったのは皮肉だろうか?


*幕末期の高炉の数について、大蕨を含めて11座であったという説もあるが監修の佐野氏から鉄の歴史館等の公開資料はすべて10座となっているとの指摘がありましたので10座と表記しました。


監 修 佐野 寛氏

参考HP
 佐野 寛氏 大島家をめぐる人々




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