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 かまいしnet 歴史読み物 「鉄の記念日」だけだった?
 


3-1 カセイ倒産
 トヨタ自動車の自動車生産現場で、自らが季節工として働いた体験を記した「自動車絶望工場」(出版年1973)で、一躍ルポルタージュ記者としての地位を確立したのが鎌田慧(カマタ サトシ 青森県弘前出身 1938年生まれ )氏だった。
 彼はその後、様々な社会の変化していく状況をリポートしていった。そして、釜石製鉄所の合理化の状況を記した「鉄鋼王国の崩壊」(出版年1987 ・後ろ書きに「1980年 朝日新聞社より『ガリバーの足跡・滅びるか鉄鋼王国ニッポン』として刊行されたものを、改題し新稿を加えて再構成したものです」とある)を出版したのだった。その取材上で興味をひいたのか、元釜石市長の鈴木東民について「反骨 鈴木東民の生涯」(出版年1989 新田次郎賞受賞)の著書も出版している。
 その「鉄鋼王国の崩壊」の中で、新日鉄釜石製鉄所の下請け企業の一つであり、地場産業最大手のカセイ(釜石化成産業)社長の田中吉平と対談し、「新日鉄が崩壊後も残るのであろう」と記し、「新日鉄のドタバタ騒ぎに超然として発言できる経営者がいることは特筆に値する」とまで書き記したのだった。 鎌田氏が生き残ると思われた要因は、「カセイ」がいち早く脱製鉄所を目指し、多角経営に足場を移した事によると思われる。(多角経営の分野については後述)
 しかし、現実には「鉄鋼王国の崩壊」を出版した、その 3年後の1990年(平成2年)、鎌田氏の予想を裏切って、「カセイ」は約60億円の負債を抱えて倒産してしまったのだった。
 「カセイ」社長の田中吉平氏は、釜石市の商工会議所会頭、体育協会会長等々その他多くの役職についていた。そういういう重責を担い、役職に重きを置いたが為に、肝心の社業がおろそかになったのか?そのために社内を見る目が十分に行き届かなったのか?あるいはその代りを担うべく役職者がその職責を全うしなかったのか?そしてまた、社業の拡大に伴う人材の育成が間に合わなかったのか?はたまた、当時の政治家あるいは釜鉄上層部の逆鱗にふれてしまったのか?等々、倒産に至った原因は色々考えられる。
 結果として粉飾決算をしていたという報道を見れば、その危機は鎌田氏のインタビューを受けていた時点からあったかも知れない。インタビューを受けたと言う事は、社長本人は知らなかったかもしれない。しかし会社のトップとして、その責任を免れるものではない。はたまた、倒産する時点で従業員に借金をさせ、その金を会社に提供 させたという報道には、部下の誰が指示したにしても言語道断であった。巷では、今でもそのことに関し恨みを抱く、元従業員が多いのではないだろうか?
しかし、思うに会社の倒産という事で、その「人や会社の歴史」が「抹消」されていくのは、非常に残念な気がする。それまでの功績や、こういう会社がある時代に有ったという記録が、すべて無くなってしまう。そこで働いた人たちも、それまで会社に尽くした忠誠が、皆無になってしまうのだ。白紙になってしまうのである。それまでの人生を否定されたようなものである。それでいいのだろうか?
 ある時代、確かに「カセイ(釜石化成産業)」は存在した、という記録があってもいいのではないだろうか?倒産してしまったけれども、釜石にはこういう会社があったのだという記録を残していかなければならないと考えた。 ここにその「釜石化成産業株式会社(後に「カセイ」)」の消えていった、あるいは隠ぺいされていった「負の歴史」を、少しでも書き留めておきたいと思う。(会社関係資料及び写真等は、私の親父さんが残していった資料を使用した。昭和40年代頃まで)

3-2 田中吉平氏・会社の沿革
田中吉平氏
* 大正元年11月20日下閉伊郡山田町生まれ。
* 田中吉造・キミ(五男二女)の長男。実家は酒販売。
* 東北中(現 東北高校)卒。
* 戦前 北朝鮮 清津で日本製鉄所勤務
* 戦後、山田から奥さんの出身地の足利へ「するめ」を運んで利益を得たこともあった。
* 元首相「鈴木善幸」氏は山田の小学校で2年先輩。鈴木氏は「宮古水産高校」へ進学。
* 清津時代の同僚の勧めで釜石製鉄所の下請け「田中組」を設立(1949.9)
* 弟 田中亮吉氏は日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)の創立に関わり、制作部長を務めた。
* 弟 田中吉雄氏は三井造船(宮古)勤務後入社。会社専務の時に死去。 社内を見まわす人物を失った。破産の遠因と考えられる。
* 昭和50年5月10日 釜石商工会議所会頭就任
* 釜石体育協会会長 「バウンドテニス」を釜石に普及させた。



釜石化成産業年表
昭和24年9月
 
田中吉平が釜石市に置いて田中組を設立し、富士製鉄株式会社よりピッチ堀作業の下命を受け、作業請負業に着手した。
昭和25年4月

 
経営を法人組織として運営することとし、資本金50万円(全額払い込)の「釜石化成株式会社」を設立。元「日本製鉄株式会社」関係者を糾合して釜石製鉄所の関連作業請負を主体として発足した。
昭和26年10月
 
商号を「釜石化成産業株式会社」と改称し、同時に資本金を50万円増資して100万円とした。
昭和28年12月100万円増資し、資本金200万円とする。
昭和30年9月
 
念願で有った練炭製造設備を新設し、釜石製鉄所に納入すると共に、練炭の市販を開始した。
昭和32年5月 さらに200万円増資し、資本金400万円とする。
昭和33年11月マル富士練炭販路拡張のため、盛岡市に営業所を開設した。
昭和34年6月
 
授権資本金2,400万円増資、払込総額500万円として内容の充実を図る。
昭和35年11月資本金300万円増資,払込総額800万円となる。
昭和36年8月 水沢営業所を開設。
昭和36年11月
 
化成ビル落成。総工費1億2千万円。建築面積1.930平方メートル。地上6階、地下1階。
昭和38年3月 資本金400万円増資,払込総額1,200万円となる。
昭和38年9月
 
釜石硅カル肥料株式会社を吸収し、生産、および販売を開始する。2万t。肥料部門を新設する。
昭和41年6月 硅カル肥料生産販売5万tを達成する。
昭和41年10月
 
輸送量増大により輸送部門新設。硅カル肥料水沢倉庫竣工。敷地3.300平方メートル、倉庫990平方メートル。総工費1,200万円。
昭和42年4月 肥料部仙台出張所開設。授権資本金4.500万円とする。
昭和42年10月
 
硅カル肥料15万t生産工場完成、総工費14,500万円肥料部関東出張所(茨城県取手市)開設
昭和43年3月
 
輸送部自動車整備工場落成 総工費1,500万円作業部 事務所、休息所落成 総工費1600万円
昭和44年10月資本金1,000万円増資,払込総額2,200万円となる。
昭和45年8月 資本金800万円増資,払込総額3,000万円となる。
昭和45年9月 FRP製品の試作に成功し、市販を開始する。
昭和45年10月
 
従業員厚生施設として、野球場、バレーコートを含むスポーツセンターを建設する。総面積12,052平方メートル。
昭和46年9月 硅酸ソーダ製造工場落成。総工費2,000万円。
昭和50年11月
 
発泡スチロール工場(平田3地割)竣工。積水化成品工業との技術提携。魚箱中心に月産15万箱。
(以後については、調査判明次第記載としたい。)

3-3 社内状況(昭和40年頃まで)
* 社歌・マル富士音頭



「音頭」と言う事は、振り付けもあったのです。


*社内報「こだま」
社員の色々な情報をまとめ、社員に配布していた。昭和30年代としては画期的な事だったのではなかろうか。



*軟式野球部
 釜石地区は社会人軟式野球が盛んであった。官公庁か製鉄所関連企業までで大会を開いていた。太平工業、産業振興、市役所、郵便局等。釜石化成の軟式野球部も花巻商(現在の花巻東)からも選手を採用していたから、余程力を入れていたに違いない。大丸健太郎という投手、とキャッチャーは芳賀憲二というバッテリーは最強だった。ショート坪井、セカンド松田の二人は、花巻商(現在の花巻東)出身だった。サード斎藤、ファースト瀬戸らが全国大会にも参加していた。松原の寮が野球部の寮となった時もあり、朝の練習は釜石工業のグラウンドで練習していた。球拾いに私も加わっていた、昭和園で試合があるときは、松原から昭和園まで歩いて応援に行った。釜鉄の鉄道線路を歩いていったものだった。釜石地区で優勝し、岩手県代表になったのか、群馬県で開かれた国体出場(S36)記念の風呂敷をもらった。社内報「こだま」によると、延長17回の熱戦だったらしい。




3-4 多角経営
3-4-1 多角経営
@製鉄所構内作業請負
会社の基礎となった部門。当初「スカーフイング作業」という部門を請け負っていた。その後、様様な構内作業を請負い、分野を広げていった。

Aコールタール製造販売
 製造する中妻工場が、五の橋上流の甲子川右岸にあった。人は吊橋を渡っていたが、トラックは川を直接横断していた。当時コールタールは、漁業等に使用されていた。

B練炭製造販売・豆炭販売
大渡橋のたもとに「マル富士練炭」のネオンサインが出来たのはいつ頃だろうか?昭和30年代後半?製鉄所の社宅にも練炭・豆炭を配っていた時代。「マル富士」の富士は富士製鉄所の「富士」だった。十全商会の豆炭も、扱っていた。当初、練炭は下部で薪などを燃やしから火をつけていたが、のちに着火練炭が販売され、上から燃焼するタイプに進化した。灰の処理が必要だった。また、独特のにおいがあった。燃焼器具の練炭火鉢も扱っていた。




C硅カル肥料
「硅カル」とは「硅酸カルシウム」の略称である。製鉄所の鉱滓に多く含まれていた。製鉄所構内から、平田まで山腹に鉄路があって,鉱滓を平田に運び、平田湾を埋め立てて処理していた。しかし、鉱滓に「硅酸カルシウム」という肥料分があることがわかり、稲作栽培の肥料として用いられるようになった。最初は「釜石硅カル肥料会社」として設立されたが、思わしくなく釜石化成産業に吸収された。その後の営業努力によって販路を拡大した。

Dてんろ石灰
肥料。製鋼スラグ。




EFRP
平田に工場を建設。強化プラスチック事業に進出した。「日本触媒化学」の技術指導をうけていた。FRP各種タンクや小型船舶も作っていた。自社マークの小型船を造船していたが、ヤンマーの下請けになった時代もあった。魚市場で見かける少し大きめのタンクも製造し、地元の水産業の需要に応えていた。 「カセイ」のマークの入った建設現場用のトイレを見かけた事がある。そのFRP技術を伝承している会社が釜石には残っていた。

F発泡スチロール
「積水化成品」の技術指導の下に、平田に魚箱月産15万箱の工場を、昭和50年11月に竣工した。その後花巻にも工場を造った。その後、花巻にも工場を建設。

G環境整備事業
側溝等の堆積した汚泥を、高圧ポンプ車を使用して吸引する環境整備。

H事務用品事業
富士ゼロックスの代理店になった。

I薬品事業
カセイソーダや、水ガラス(硅酸ソーダ・土壌改良材)を作っていた。水ガラスは軟弱な地盤に注入して、固めるような役割を果たす。

Jスチールボール製造
紛体製造のための鋼球。

3-4-2 多角化は両刃の剣?
 前述しただけで、11種の営業部門を数えることが出来た。しかし「自動車整備事業」も行っていたし、ビル屋上の「防水」事業も行っていた。また、自動車整備事業の付帯事業として、「損害保険業」にも手を出していた。その他にも化成ビルの「ビル貸室事業」があり、盛岡で「ガソリンスタンド」も経営していたのだった。「灯油タンク」の製造も、東海新聞で見た記憶がある。(「東海新聞社」は化成ビルの隣にあったが、震災時には「サンルートホテル」の付近に移転しており、被災して廃業した)
 その他に「自動車用ハーネス」にも進出したのではなかったか?そのほかにもあったかもしれない。商事会社と言ってもいいくらいに、際限なく業務範囲を拡大していった様である。会社が誰も制御できない事態に、陥ってしまったかのようであった。
 多角化の一部門であった「事務用品事業」は、果たして取り組むべき事業だったのか?製造業である会社が、「営業職」をメインとする事業に進出した。それが、社風に馴染んだものだったのかどうか?やるにしても、別会社「スイセイ事務機」でもよかったのではなかっただろうか?また、「バウンドテニス」を釜石に普及させたのも田中社長で、その「スポーツ用品販売」も会社として手掛けていた。その「バウンドテニス用品」を扱うにしても、製造業としての社風に合わなかったのではないか?社長の個人会社として「モクセイスポーツ」でもよかったのではないだろうか。
 「自動車整備」事業にしても、「保険代理業」が付帯するのは、当然の事業であるが、果たして、そのまま、「カセイ」の事業として取り組むべきだったのか?
 また、昭和30年代、「練炭」部門は、市内や県内の商店にも直接、小売して民間のお客さんが多い部門であった。言い方を変えれば、「日銭」が入る大切な部門であった筈である。そしてまた、練炭の次に何が家庭のエネルギー源となるのか、そういう視点に欠けていたことは否めない。次世代の家庭でのエネルギー、いち早く、プロパンガス・灯油への転換を進めるべく先見の明がなかった。製鉄所の社宅という膨大な顧客を抱えながら、その顧客の、あるいは社会のエネルギーの流れを見極めることが出来なかったと言う事である。企業の存在は、常に次を考えていかねばならなかった。もっと重視すべきであった。「燃料部門」としての独立採算を、早い時期に考えるべきであった。
 すなわち、「カセイ」の多角経営には、その部門、部門ごとの収支が出来ていたのか、はなはだ疑問が残る結果となってしまったのではないだろうか?
 その部門ごとの収支について、誰も把握できていなかったのではないかと言う事である。会社全体の収支についても、工場ごとにするか、部門ごとにするか、あまりに広くなりすぎて、誰も理解できない事態に、陥ってしまったのではなかろうか。
 おそらくこういう拡大の裏には、肥料販売の利益がつぎ込まれていったのだろうと思われる。「硅カル肥料」の儲けを、ほかの部門の損失に注ぎ込んでしまったために倒産してしまったのではなかったのか。もっと、早い時期に事業部制にするか、子会社かにするかを決断すべきだったのだった。
 製鉄所からの天下りを受け入れてはいたが、それよりも銀行からの財務に強い会計のプロたる人物を、迎え入れるべき規模の大きさの会社になっていたことに、気が付かなかったのであった。「多角化」は「両刃の剣」であって、そこを理解しなかった、出来なかった経営体質だったとも、言うことができるのである。
 鎌田氏が「カセイ」は生き残るといった背景には、その多角経営が挙げられている。結果として、「カセイ」が倒産してしまったという事は、鎌田氏の「多角化によって生き残る」という見方が正しかったかどうかについても、疑問が残る結果となった。鎌田氏とは、逆に、多角化が足を引っ張ってしまったと、言うことも出来るのである。
 もう少し、その経営状態の内部について検討してから、記事にすべきではなかったかと思う。事業収支について、検討をしてから記事にすべきではなかったかと考える。まあ、その時点で粉飾決算をしていれば、見抜けなかったかもしれないのだが。

3-4-3 多角化の生き残り
 前述したが、鎌田慧の「カセイは生き残る」という読みは、間違っていたのではないか、逆に足を引っ張ったのではないかと書いた。しかし、逆に、見方を変えればある意味正しかったのではないだろうかということも、出来るのである。それは製鉄所の構内作業請負から出発した「カセイ」は倒産したが、その派生した多角経営の部門が、会社として生き残っているからである。利益のあった部門が復活したり、別会社に成ったりして生き残っているからである。
 硅カル肥料工場は、「ミネックス」という会社に生まれ変わっていた。その会社のホームページを見ると、釜石化成産業株式会社の設立を、会社の沿革の最初と記している。会長の吉田氏は、釜石の地場産業「元持」会社の役員であった筈である。そして倒産前に「カセイ」から分社し、平成2年3月に「ミネックス株式会社」を設立したことになっている。合理化による高炉廃止で鉱滓が出なくなった現在でも、君津から鉱滓を船で運んで「硅カル肥料」「てんろ石灰肥料」を製造・販売しているのである。
 また、中妻工場は「同和鍛造」(資本金3000万円・東京都大田区)が平成6 年 5月に取得している。ホームページによると、「産廃処理施設・転造鋼球製造装置・珪酸曹達製造設備等の工場1式を取得」とある。「カセイ」の「中妻工場」が、その中心である。
 花巻の発泡スチロール工場は「花巻化成」として、笠原グループ(発泡プラスチック大手)の会社として、企業活動を続けているのである。
 そのように、「カセイ」の「多角化」した部門が、6部門(硅カル・てんろ石灰・発泡スチロール・産廃処理・スチールボール・珪酸ソーダ)も生き残っているのである。
 と言う事は、倒産時に、まだ再生の余地があったと言う事に他ならないのではないだろうか?
 鎌田氏の読みは、ここで「正しかった」ということも出来るのである。そして、あと「少しの助け」があれば、何とか生き残ることが出来たのではないだろうか、と言う事もできたのである。6部門も生き残っていることが、それを証明しているのである。「カセイ」の倒産を避ける、その可能性はまだあったと言う事が出来るのであった。
 倒産の法的措置については詳しくはないが、そういう現状を見ると、倒産させることによって、会社を分割したと言う事も可能だったのではないだろうか?
 確か、田中氏はそれまで、某地方銀行の「*友会」という地域組織の会長をしていた筈である。会長と言う事は、それだけ取引金額が多いと言う事だったのだろう。そういう銀行が、受け身的な対応しかしていなかったのは何故か?どうして、銀行は見放したのか?再生可能だった企業を、縮小しても「地域産業再生」のためにも残すべき判断をするべきではなかったのか?人を送り込んで、その再生に力を貸してもよかったのではないか?
 地域再生のために、地場産業発展のために残すべき努力をするのが、地方銀行の役目ではなかったのか?
 それぞれの企業には、それぞれの歴史がある。銀行に頼らなければならない時を、乗り越えて大企業になった会社もあっただろう。しかし、そこで、倒産してしまった会社もあったかも知れない。債権の取り立てに傾いた銀行の判断は、果たして正解だったのか ?
 組織を壊すのは簡単だが、組織を作るというのは大変困難な事業だという事を認識し、会社再生が地域振興に果たす役割が、目先の利益より長い目での銀行の利益になると、考えるような銀行マンが、増えることを願ってやまない。

3-5 個人的な思い出
*昭和30年代前半、田中社長は、現場周りをラピッドスクーターで見廻っていた。当時会社は、浜町の市営ビルの2階にあった。スクーターでは、雨の日に不便だと考えたのか、車庫に、「マツダクーペ360」が置かれた時代があった。2人乗りの小さな車だった。社長が購入したようだったが、あまり運転しなかった。
*倉庫に本が入ったリンゴの木箱があった。社長と同じ山田出身の佐藤善一著書の『鞭牛和尚』の本だった。
*倉庫には、大小さまざまな練炭等が積み重ねられていた。練炭は、大きさによって何号と呼ばれていた。片隅に小さな事務所があって、昆さんという女子事務員が勤務していた。「かくれんぼ」のいい遊び場だった。
*車庫には、いすゞのトラックや社長専用車の「ヒルマン」等があった。また、そのころのトラックの主力は5トン車で、中に珍しい「横転ダンプ」があった。普通は後ろに荷台をあげるが、このトラックは左右両サイドに荷台を上げることが出来たのだった。製鉄所構内での作業で、狭い場所での荷物の積み下ろしのための購入だったのだろう。
*トラックのタイヤの交換等を運転手の人たちでこなしていた。親分は、旭町の三松さんで、副が浜町の藤元さんだった。朝、トラックのエンジンが掛から無いとクランク棒を入れて、回していた。
*練炭を配達する5トン車に乗って、宮古まで一日掛かって往来した事が何度かあった。午前中に宮古までいって、練炭を下す手伝いをして、夕方釜石に帰ってくるという状況だった。また、道路でトラック同士が行きかうと、どっちかが、広いところまでバックしなければならなかった。どっちがバックするのか、にらみ合いもあった。舗装されておらず、狭く、曲がりくねった国道だった。練炭のほかにコールタールを、気仙沼の漁港まで運んだ車に同乗したこともあった。トラックに載せてくれるのは、いつもKさんで、楽しい体験だった。
*会社には、どういうわけか、大工さんのグループもあって、棟梁が岩淵さんで、その下に大きい加藤さんと小さい加藤さんがいた。「かんな掛け」は見事だった。何かで大町に住んでいた岩淵さんの家に行った記憶がある。
*松原町の児童公園の沢伝いに、会社の独身寮があった。社長の姉さんとその娘さんたちが食事の世話をしていた。  
*また、当時のアルバムをひっくり返してみると、会社のリクレーション行事に、親父さんに連れられて参加していた。だから、会社の人たちの名前を覚えた。当時の会社には若い人たちが沢山いたので、様様な行事を開催したのだろう。
@浪板海岸 海水浴
A和山高原ハイキング
B根浜海岸 海水浴
C五葉山登山



おわりに
 始めは、記述した分量でもわかるように「カセイ」について記すつもりであったが、時代をさかのぼって「鉱山」や「釜鉄」まで広げ、「もし」「たら」「れば」という妄想までしてしまった。
 釜石は人口が9万人を超えた時期もあったが、現在は半減以下の3.8万人である。典型的な企業城下町であった。企業の合併にともなう合理化によって、人口は減少していった。名古屋へ、そして君津へ、釜石で培われた技術をもって、社員たちは移動していったのだった。また、下請け会社に勤務した私の親父さんのように、家族を伴って釜石に集まった人たちも、合理化に伴って釜石を離れてしまった。それでも、離れた「釜石」の事を、みんながどこかで思っているに違いない。
 そして、そのような思い出の中で、20年以上前に倒産した会社の事を、今更とやかく言ってもどうしようもないことは、重々わかっている。しかし、自分にとって「カセイの倒産」は、のどに刺さった小骨のように、気にかかっていた出来事であった。自分が釜石で育った昭和30年代に、会社の色んな大人と接した会社だった。釜石を離れても、そんな会社に親しみを持って見ていたから、気に懸かっていた。なおさら、倒産させてしまった田中吉平社長の無念さを思っているからかもしれない。倒産前にTVに写り、医療廃棄物処理に、まだ会社の再生を賭ける意気込みを語っていた。まだ、新規の事業意欲があったのだった。
 フロンティア精神に満ちた経営者が、釜石にもいて、「鉱脈を見つけた」のだけれども、あと1歩足りなかったところで挫折してしまったのだった。そういう会社の歴史を残さなければならない。こういう会社が「釜石」にも存在したという記録を、「釜石」のどこかに残さなければならないと思っていた。
 「カセイ」倒産後の、平成5年には「釜石信用金庫」が「解散譲渡」している。銀行である「信用金庫」がつぶれてしまったのである。通常、考えられない出来事であった。すべて釜鉄の「合理化」の影響にしているが、当時の釜石には「黒煙」が渦巻いていたのだろうか。
 製鉄業の規模拡大という合理化の歴史の中で、「釜鉄」に残ったものは?そして「釜石」に残ったものは何だったのだろうか。果たして、続く鉱脈はあるのだろうか?平成25年3月13日、新日鉄住金は君津の高炉1基を休止すると発表した。さらなる合理化である。そして、釜石に残ったのは「鉄の記念日」だけだった、と言う事にならないように、願うのみである。

平成25年3月                          細越健一






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