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 かまいしnet 歴史読み物 「鉄の記念日」だけだった?
 


2-1 合併のたびに
 「釜鉄」の歴史を振り返るに、「官」で経営失敗したのを、払い下げを受けた「民」の田中長兵衛が、「釜石鉱山田中製鉄所」を設立し、高橋亦助によって連続出銑に成功したのだった。その後の「官営八幡製鉄所」の溶鉱炉火入れにも、釜石から技術者が派遣された。「釜石鉱山田中製鉄所」の顧問であった野呂景義教授の指導のもとに、「官営八幡製鉄所」は復活した。「民」によって「官」が復活したのだった。また、日本初の「コークス炉」を成功させたのも「釜鉄」で、出銑量が大幅に増加したのだった。
 そのように、製鉄業の最先端を進んでいたのが、「釜鉄」だったのだ。
 そのような栄光のもとに、昭和30年代、釜石は賑やかだった。製鉄所の製鉄原料の鉄鉱石や石炭を積んだ船が入り、製品を運ぶ船が出港していった。港近くの「旭町」の歓楽街のネオンサインは、毎晩光輝いていた。中学校の校歌には「商船漁船行きかいて」とあって、高校の校歌には「黒煙渦巻き車輪はきしる」とあった。東北地方から人が集まった。直木賞作家で「吉里吉里人」や「ひょっこりひょうたん島」の井上ひさし氏の母マスさんも、一関からきて「のん兵衛横丁」で頑張ったと自伝にある。製鉄所の工場は24時間、音と光を発しつづけた。通勤時、釜石駅から製鉄所まで働く人たちが道路にあふれかえっていた。
 その反面、工場からの真っ黒な排水は、「油川」と呼ばれて、釜石湾内にとめどなく流れ込んでいった。五葉山からの北風の吹く時期には、遊んでいても目に煤塵の「ゆふ」がはいり、近くの「片山医院」に行かねばならなかった。煤塵で社宅の屋根の「とよ」は、その煤塵の重さで落ちるのだった。
 しかし、当時「公害」という「言葉」も「意識」もなく、製鉄所も住民も何等、問題にしたことがなかった昭和30年代前半であった。人口も、のちに9万人を超えた時期があったのだった。
 当時は「富士製鉄」であり、室蘭、広畑、釜石に高炉があった。それから、鉄鋼製品の需要の拡大に応えるために、1961年(昭和36年)兵庫県堺に、1965年(昭和40年)東京オリンピックの次の年に千葉県君津に、それぞれ新たな高炉を設け工場を操業した。そして、「東海製鉄」に高炉が完成し、1967年(昭和42年)8月、富士製鉄が吸収合併して「名古屋製鉄所」となった。
 その頃から、すでに釜石には「合理化の嵐」はふきはじめていたのだった。続いて、「八幡製鉄」と「富士製鉄」の合併が1968年(昭和43年)4月に発表された。公正取引委員会でひっかかったのが、合併後のレール部門の独占だった。釜石では1952年(昭和28年)からレールの生産を開始していたが、合併する八幡でも生産をしていた。合併後に1社が独占する事態が生じてしまったのだった。そこで独占禁止法に抵触するとして、釜石のレール設備部門を、「日本鋼管福山製鉄所」に譲渡することによって、合併が可能となったのだった。両会社の首脳陣は、八幡ではなく、釜石の部門を選択・譲渡したのだった。そして、1970年(昭和45年)3月、「新日本製鉄」が誕生した。そういう合併により、「釜鉄」の「新日鉄」内での占める割合は下がっていったのだった。
 1985年(昭和60年)「第二高炉休止」、1989年(平成元年)「第一高炉休止」と、合理化は急速に進んでいった。それとともに、余剰人員の仕事と言う事で、様々な仕事の開発がすすめられた。大豆たんぱくの「タンパックス」、「使い捨て携帯カイロ」「情報処理サービス」「電子部品製造」等々であった。
 製鉄業は広大な敷地で大きな溶鉱炉を構え、海外から大量の鉄鉱石を輸入して、鉄製品を生産する形態に変化していったのだった。近頃、大分製鉄所では、40万トンの鉱石船が入港したそうである。
 「釜石」は先発の「利」を生かせなかった。製鉄業が大きく変化するに従い、その効率化を図るに従い、「大量生産」の為に広大な用地が必要になったのだった。しかし、釜石には広大な後背地が無かった。あるのは山ばかりだった。そこが釜石の悲劇の「合理化」の始まりだった。会社が合併して大きくなっていくたびに、「合理化」を何度も何度も経験して、「釜石」の存在は小さくなっていった。昭和40年代以降、そういう歴史の繰り返しであった。
 それまで培われた製鉄技術の集積は、「東海製鉄所」へ、そして「君津製鉄所」へと流れていったのだった。 そしてまた、「新日鉄」は「住友金属」との合併を2012年 10 月に発表したのだった。次の競争相手は、世界へと拡大していった結果の合併だった。「住友金属」は、製鉄に関しては後発で、茨城県鹿島と和歌山に高炉を持って、鋼管事業に強みがあった。合併することによって、更なる規模拡大となった。
 そして「新日鉄住金」として新しくなった企業経営者は、次に何を考えているのだろうか。釜石には、次にどういう「合理化」が押し寄せてくるのか?経営陣は次にどのような手を、釜石に打ってくるのか?
 現在、釜石では「線材」を生産している。ところが室蘭でも、同様に「線材」を生産しているのである。違う線材なのか、同じ線材を生産しているのかは不明だが、いずれにしても、経営者の選択は更なる「合理化」であろう。現在の釜石製鉄所の従業員数は250人足らずである。しかし、室蘭にはまだ「高炉」がある。別会社として「北海製鉄」を平成4年に設立して、高炉を残したのだった。この方針の違いは何なのだろう。釜石には「高炉」が無いのだ。合併によって規模縮小、人口減の続く釜石に次の合理化は来るのだろうか。

*釜鉄の鈴子の現在地より、広大な鵜住居に製鉄所を立地していたら、もう少し製鉄業は残っていたのだろうか。
*もし「新日鉄」になる際に、「釜鉄」として、独立独歩の道を歩んでいたら、レールの生産現場として残ることが出来たのではないだろうか?
*「釜石鉱山」から田中長兵衛の「田中財閥」が産まれる可能性はなかったのだろうか?


2-2 合理化の陰で
そういう「合理化」の波を何度も、くぐりぬけた「釜鉄」の地場産業は、どのような道をたどったのだろうか。したたかに残った経済人は釜石にいたのだろうか?鉱脈を見つけたのだろうか?
 昭和30年代の釜石の会社のリストである。
 1 地元資本
会社名 業種 所在地 人員
旭輸送梶@ 輸送業 大町 152名
荒井運輸梶@ 輸送業 港町 88名
池端商事梶@   只越町 80名 
釜石海陸運輸  輸送業 港町 190名 
釜石化成産業梶@     大渡町 440名
釜石共栄梶@ 小売り業 上中島町 95名
サン港運梶@ 輸送業 浜町 116名
鉄光産業梶@   大町  40名
五菱工業梶@ 鉄工業 甲子町 128名
褐ウ持    建設業 大町  94名
長屋産業梶@   中妻町 45名  
褐ヒ来組   土木業 上中島町 50名
且井鉄工所    大渡町 90名
釜石鉄工所 鉄工業 松原町   
小沢組 土木業 松原町   
遊佐工務店 建設業 松原町   


2 釜石に営業の拠点を構えていた会社
会社名 業種 所在地 人員
太平工業 輸送業 中妻町 696名
鞄S原        大渡町 140名
産業振興梶@    大渡町 140名
日本通運梶@  輸送業 鈴子町 400名
椛K高組    建設業 港町 271名
西松建設梶@ 建設業 松原町 213名


 「合理化」を経て、昭和30年代の地元産業で生き残った会社は、現在存在しているのだろうか? 「釜石共栄」は、製鉄所の購買部が発展した会社であった。同じく釜石の老舗デパート「及新」のスーパー部門も、いつの間にか消えてしまっていた。
 「釜石鉄工所」は矢の浦橋の松原側の袂にあり、鋳物・銑鉄の仕事をしていたが倒産してしまった。 また「太平工業」は、釜石だけ別会社となっている。「鉄原」はその昔、「製鉄原料輸送」という会社だった。昭和30年代、近所の釜石支店長宅には、黒塗りの支店長専用車が迎えにきて、運転手が車を掃除しながら、待っていたものだった。現在は「テツゲン」とカタカナに社名変更して、岩手県内でも、下水道処理事業の管理委託で基盤を拡大している。
 そういう昭和30年代から、40年近くたった中でも、「釜石」から、新たな鉱脈を見つけた企業をあげるとすれば、「岩手トヨペット」の「元持グループ」だけだろうか。「建設業」も残っている。「岩手トヨペット」は本拠地を盛岡にあるから、釜石から発展した企業グループであることは、あまり知られていないが、2代目は、盛岡商工会議所会頭を務めている。製鉄所構内の各種輸送を請け負っていた「旭輸送」を創業した元持儀左衛門氏が、「岩手トヨペット」の販売権利を取得したのは、昭和31年の事だった。まだ、あまり自動車が普及していなかった時代に、その発展を予測し、トヨタの自動車販売チャンネルの取得をしたのだった。経営者としての先見の明があった。ちなみに「岩手トヨタ」は昭和17年の設立となっている。
 そして、その一方、脱「製鉄」として多角経営を進めたが、倒産してしまったのが「カセイ(旧 釜石化成産業株式会社)」であった。地場産業最大手として、釜石市民で知らない者はいないほどの会社が倒産したのだった。大渡町の「化成ビル」には、地下に鉄道弘済会のグリル、1階には山本猛夫ストアや、高砂リースなどの店が展開された。ビルには製鉄所関連企業が入居して、屋上には「コカコーラ」のネオンサインが輝いていた。







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