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 かまいしnet 歴史読み物 「鉄の記念日」だけだった?
 


1-1 鉱山経営
 近代日本の工業化の歩みにおける歴史の中で、「鉱山」は大変重要な役割を果たした。鉱山の開発から、日本の工業化は始まったと言っても、過言ではない。国内に様々な金属等の鉱山が、小規模であったとしても存在していたから、日本の工業化は始まっていったのだった。鉄山から、銅山から、炭鉱から日本の工業化は始まり、進んで行ったのだった。
 現在ではあまり聞くことが少なくなったが、「産業のコメ」というのは「鉄」のことだった。「鉄」が無ければ、「産業」が成り立たず、次世代への展開が開けなかったのであった。
 江戸時代から明治・大正時代にかけての鉱山事業は、それこそ新しい産業の基礎であり、幕開けだった。全国各地に「鉄」を含めて色々な金属原料や、炭鉱としての鉱山が開発されていったのだった。
 鉱山開発によって、資本の蓄積による財閥の形成もあった。「別子銅山」では、その利益のもとに「住友家」が、その規模を大きく拡大し「住友財閥」を形成した。
 秋田県の「小坂銅山」は江戸時代の文化13年(1816年)から、金、銀の鉱山として開発が始まった。南部藩の大島高任が調査をして「稀有な良山あり」と報告した。南部藩は大島に鉱山開発を命じた。しかし戊申戦争で中断。
 明治17年(1884年)明治政府から、大阪の藤田伝三郎が払い下げを受ける。そこに集まったのが、日立鉱山を開発した久原房之介だった。また、後に「日立製作所」を創業した小平浪平も東京帝大を卒業して入社し、鉱山用の発電所を建設した。小平は「小坂鉱山」の後に東京電燈(のちの東京電力)等を経て、久原房之介の経営する久原鉱業所日立鉱山に入社した。そして鉱山用の発電所を建設しながら、国産の電動機製造技術の確立を目指した。当時、鉱山や炭鉱で使用する電動機は、輸入した「外国製」だった。対抗して「国産」の電動機を造る、そのような現状に改革の火をともした人たちが、次世代への時代の扉を開いていったのだ。
 明治43年国産電動機を完成し、日立製作所を創業した。久原房之介と小平浪平との、「小坂鉱山」での出会いが、「日立製作所」を創業するきっかけとなったのだった。そして「優れた人材」を「確保する」「育成する」「養成する」ことに力を注いだ。その中には、「安川電機」創業者の安川第五郎もいた。
 九州の「明治財閥」の明治鉱業から派生したのが、「安川電機」である。現在、産業用ロボットで世界一の会社である。炭鉱での電気用品の開発・製造を目的として、1915年(大正4年)設立された会社で、炭鉱無きあとも、会社は存続発展している。国産の電動機開発を、その発展の基礎としている。創業者の安川第五郎は、日立で小浪のもとでの1年間、電動機製造のノウハウを学んだに違いない。その後、外国留学もしている 「日立鉱山」からは久原房之介の政界入りの後、義兄の鮎川義介による「日産コンツェルン」が形成され、「日本鉱業」や「日産自動車」が誕生していった。これらの経済界の流れのすべての始まりは、南部藩の「小坂銅山」にあったのだった。
 また、「小坂」「別子」とともに、日本の3大銅山といわれた「足尾銅山」を開発した古河銅山が、「古河財閥」を形成し、その派生した流れの中で「富士電機」が産まれていった。国産の技術ではなく、ドイツの「シーメンス」の技術導入で「富士電機」を創業した。   国産ロボットやNC装置で有名な「ファナック」は、以前は「富士通ファナック」であり、古河財閥の一員であった。
 鉱山事業から派生した企業の「日立」と「富士電機」が重電機メーカーで競い、「安川電機」と「ファナック」が時代の最先端の「ロボット」で競っているのである。4社とも、そういう時代の先端を行くという「進取の社風」に、満ちているに違いない。そういういう社風を持っているのは、鉱山開発と無縁のものなのだろうか?
 これらの鉱山から派生した企業は、鉱脈が枯れ鉱山がなくなっても、次世代への産業のバトンの役目を果たし、タスキを渡すことが出来、現代まで存在する企業を残したのだった。新たな鉱脈を見つけ出したのだった。
 そのように現在の電機メーカーの中での、「日立」「富士電機」「安川電機」は、「鉱山事業」から派生、発展した企業グループで、松下幸之助が個人から創業した「ナショナル」とかとは、違う歩みを遂げている。

1-2 岩手の鉱山
 しかし、次世代へのバトンを繋いだ鉱山は、岩手県には無かったのであった。岩手にも、数多くの鉱山があったにも関わらず、タスキがつながらなかったのである。鉱脈が枯れると、会社も無くなってしまったのであった。
 南部藩は「尾去沢鉱山」「小坂銅山」「釜石鉱山」を管轄下において、「大島高任」が鉱山吟味役としていた。しかし、「尾去沢鉱山」は、明治維新の際の「南部藩」から「明治政府」へ経営主体が変わる際に、新政府の大蔵大輔(大臣の次の要職)井上馨(元 長州藩)らの謀略によって、長州の岡田平蔵に買い取られた。この「尾去沢銅山事件」で南部藩盛岡の豪商「村井茂兵衛 」は没落した。井上は「尾去沢銅山事件」で大蔵大輔を辞職したが、のちに復権している。
 そして「小坂銅山」も、南部藩から官営に転換後に、「尾去沢鉱山」と同様に、長州の藤田伝三郎に払い下げられたのだった。「奇しくも」と言いたいほどに、南部藩の二つの鉱山は、長州閥に経営を変わられてしまったのだった。
 こうなると岩手と秋田との県境も、長州閥により、ゆがめられた感は否めない。「尾去沢鉱山」は後に三菱に経営が変わる。明治維新の裏側には、このような件が沢山あったに違いない。幕府方についた東北の各藩の無念を、今になって思い知る。

釜石鉱山の歴史
享保12(1727)年 江戸幕府付採薬使の阿部将翁が仙人峠で磁鉄鉱を発見
安政4(1857)年 大島高任が鉱山の鉱石で洋式高炉で製鉄に成功
明治7(1874)年 明治政府により官営製鉄所となる。(後、明治16年に官営製鉄所閉鎖)
明治20(1887)年 実業家、田中長兵衛が釜石鉱山田中製鉄所を創立。
大正13(1924)年 三井鉱山株式会社の資本となり、釜石鉱山株式会社となる。
昭和14(1939)年 日本製鐵(株)より分離独立して日鉄鉱業(株)が創立。同年5月、日鉄鉱業(株)釜石鉱業所となる。
平成5(1993)年 大規模な鉄鉱石の採掘を終了する。現在は鉱泉水(仙人秘水)の製造を行っている。

 釜石鉱山では、金・銀・銅・亜鉛・鉛等が産出された。
 明治時代以降、岩手県内においても、鉱山事業は盛んであった。多くの鉱山が県内各地に開発された。中でも田老鉱山と、松尾鉱山は規模が大きかった。
*田老鉱山 ラサ工業 1919年(大正8年) 
   金・銀・ 銅・亜鉛・鉛等
*松尾鉱山 増田屋 1911年(明治44年)
   硫黄・黄鉄鉱
 どちらの鉱山にも、鉱山近くに働く人達のために、社宅街を形成し、大きな街が出来た。しかし、結局、鉱脈が尽きるとともに鉱山は閉山となってしまった。経営者は、鉱山資源は無限大、あるいは需要はいつまでも続くと考えていたのではないだろうか?と言われても仕方がない。結局残ったのは、工場や社宅の「廃墟」だけだったと言う事になってしまった。創業からの長い時間の経過の中で、資本の蓄積、技術の発展継承、人材育成等々、結局何も残すことが出来なかったのであった。次なる「タスキ」を見つけられないまま、様様な技術を身に着け、組織を作った人々は散っていってしまった。
 小坂銅山で、そして日立銅山で、小浪が発電所を建設した。当時は自前の発電所だったのだ。釜石、田老、松尾の各鉱山も、自前の発電所を所有していたに違いない。鉱山の為に、発電機がうなり、モーターが回っていたに違いないのである。おそらくは、そこに修理工場はあったと思う。しかし、そこから発展しなかったのだった。「日立製作所」の始まりは「掘立小屋」だったそうである。
 前述したように、鉱山から「国産電動機」の開発で、次世代を築いた「日立」や「安川電機」のような起業の機会が、どこかにあったにも関わらず、そのチャンスを失してしまったのだった。「釜石鉱山」では、「日立」や「安川」より早く、その創業の機会があったのではないだろうか?釜石、田老、松尾には「電動機」に関わらず、次なるための次世代への「タスキ」をつなぐ「掘立小屋」が立たなかったのだった。
 現在、秋田県の「小坂鉱山」はその会社形態を「DOWAホールディングス」と名前を変え、生き残っている。携帯電話・パソコンとか、電気製品からの金属のリサイクルシステムを確立しているのである。いわゆる「都市鉱山」からの金属回収で、世界の注目を集めている。「掘立小屋」を見つけたのだった。次世代への「タスキ」を見事につないでいる。会社のホームページによると、「製錬」「環境・リサイクル」「電子材料」「金属加工」「熱処理」という部門がある。
 なぜに「小坂鉱山」は生き残り、岩手県の「松尾」「田老」「釜石」は衰退したのか?
 産業の歴史の先達としての、「鉱山」が多かった岩手の地において、そこに何が足りなかったのだろうか?次の鉱脈はどこにあったのだろうか?見つけられなかったのであった。
 そして、岩手の鉱山事業でかろうじて残ったのが「釜石のミネラルウオーター」だけだったというのは、前述の「小坂」「別子」「日立」「古河」「明治」各鉱山事業の派生・発展ぶりを見るに、残念きわまりない。

 私たちの住む岩手の地の、鉱山の歴史を振り返ってみるに、まさしく「たら」「れば」「もし」の1つでも叶っていたならば、もう少し違った世界を見る事が出来たのではないだろうか?と思っている。 「もし、日立製作所を創業した小平氏が釜石にきたら」
「松尾鉱山を大阪の藤田伝三郎が経営していたら」
「田老鉱山に久原房之介がきていたら」
 夢見ることに切りが無いが、松尾鉱山からは、硫黄の素材から発展した化学産業「松尾化学」、田老鉱山から化学プラント産業「TAROUプラント」、釜石鉱山からは、前述した「安川電機」に対抗するような「甲子電機」が産まれていった。あるいは、鉱山から製鉄所までの鉄道敷設も日本で三番目に早かったので、「釜石鉄道会社」が私鉄の運営会社として、東北各地に進出した、というようなさまざまな夢も、その歴史のどこかにチャンスがあったに違いないのである。歴史を振り返るに、日本の近代化・工業化のきっかけとなった岩手の「鉱山開発」は、どこかでその機会に、遭遇していたのであった。そこには岩手県人に、何か欠けているものがあるからだろうか?「独立独歩」の精神がかけていたのでないからだろうか?
 先日、身辺整理で釜石工業高校の文集「港陵」(昭和38年)を見ていたら、当時の校長 村田貞亥知先生が巻頭言で
「東北開発の立ち遅れにはいろいろの要因があろうが、人材の不定、つまり科学と産業技術に理解を持った人間が少ないともいえるだろう。文化、経済の発展には高い知性、豊かな情操、たくましい意志を身につけた、そしてそれぞれの能力と個性とを生かして、進んで国家の繁栄と人類の福祉に奉仕する気概を持った青少年が必要である」と記していたのだった。半世紀ほど前の「言葉」であったが、現在でも的確に「岩手」の弱点をついていた。

 それにしても、南部藩士「大島高任」の偉業は素晴らしいものである。釜石での連続出銑の「試行錯誤」は、それこそ前述の「高い知性、豊かな情操、たくましい意志」を感ずるのである。また盛岡に藩校「日新堂」を創設した。新渡戸稲造や田中館愛橘らは、その出身者である。大島高任は、のちに明治政府の「鉱山局長」を務め、鉱山開発を指導して、日本の近代化・工業化に多大な貢献をした。







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