橋野高炉跡の価値
江戸末期、黒船来訪などにより幕府は尊皇攘夷の思想の元、海防の重要性に迫られた。

 水戸藩の依頼に反射炉を水戸の那珂湊に築造した大島高任は古来からの砂鉄によるたたら製鉄に限界を感じ、鉄鉱石を使った洋式高炉による製鉄を志す。

 安政4年、大島高任は現在の釜石市甲子町大橋で日本初の洋式高炉による出銑に成功した。ただし、この成功は西洋の技術をそのままコピーしたような、生易しいものではなかった。随所にこの鉄産地で培った技術を大島高任は取り入れた。大島はこの高炉を「日本式高炉」と呼んでいた。

その後、釜石には橋野高炉を始めとする13の高炉が立ち並び幕末に東洋最大のコンビナートを形成した。このことはわが国の近代化の始まりでありマニファクチャーから大量生産への転換点となった。

橋野高炉跡の持つ価値はわが国を始めアジアを見ても顕著な普遍的価値といえる。