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モノづくりDNA 第1回大島高任



 昭和40年前後だと思うが、高校に「裸のおじさん」がやってきた。確か岩手県水沢付近の出身で「及川ラカン」さんと言った。インターネットでは「裸観」と「羅漢」の二種類の記載がある。小さなのぼりを持って、上半身裸で半ズボンを穿いて、坊主頭で歩いてやってきた。少々小太りだった。何かを言っては「あっははは、あっははは」と豪快に笑いとばすのだった。体育館で急遽、講演会が開かれた。
 「ニコニコ裸運動」と言って、笑うのが健康のもと、裸が健康のもとと言うのが、ラカンさんの主張であった。何か大病をしてから、それに気付いたように言ったような記憶がある。そうやって日本中の小学校、中学校、高校を歩いて講演して回っていた人物であった。
 そういえば、当時、小川と小佐野の境目あたりの線路の向こう側の防空壕に、赤いスカートを穿いて、帽子をかぶったおじさんが暮らしていたが、あのおじさんは一体何で生計を立てていたのだろうか。


地域風土の違いは釜石の中でもあった。私の育った所は人より目立つ事を嫌う風潮があった。小学校では、授業で先生が「判った人 手を挙げて!」と言っても誰も手を挙げなかったのである。判らないから手を挙げないのではなく、目立つ事を嫌うから手を挙げなかったのである。女子もそうであった。先生方は苦労した事だろうと今になって思う。
ところが、昭和園グラウンドで中学校の陸上競技大会が開かれた時の事である。中学校3年生の頃だと思うから、昭和37年頃の出来事である。隣に陣取った中学校の応援席に、グラウンドから手を振っている生徒がいるのだった。それに応援席は、全校生徒が大きな声で答えるのだった。走り幅とびか走り高飛びの競技だったと思うが、グラウンドから応援席に向って、今で言う「パフォーマンス」をしているのだった。私たちにとって考えられない出来事だったので、強烈な印象を持って覚えていた。
この「釜石の風景」を書きながら、その出来事を思い出したのだが、その手を振っていた彼に似た奴が、同級生にいた事を思い出したのだ。高校でも陸上部に入って、出身中学校も同じということから、昨年(2007年)の11月還暦の同級会で聞いたら間違いなかった。その彼だったのだ。
高校に入学してから間もなく「三田明」の「美しい十代」を英語に訳して歌おうと持ちかけてきたのも彼だった。
白い野バラを・・・」が「 ホワイトローズに・・・」。ところが途中から、中学校時代の同級生の女の子の名前を並べるのだった。「 チエコにコマコ・・・・」
もう一つ忘れられないのは、女優の「嵯峨三智子」の事である。今まで聞いた事もない女優の名前を、教室で連発するのだった。思い出すに大地喜和子に似たような女優だったような気がするが、何らかの映画を見て嵯峨三智子のファンになったのだろう。しかし高校生がファンになる対象としては首を傾けざるを得なかったので覚えていた。どこの何を持ってしていいというのか、何か映画を見て言っていたのだろうが、あの頃の嵯峨三智子は結構年を取っていた様な気がした。しかしインターネットで嵯峨三智子の事を調べてみると、私たちより10歳年上だったから思ったより若かったようである。
彼は今、神戸で会社の会長となっているのである。神戸の風土は、彼の気質に合っているのだろう。 
 また、おふくろさんの出身地である遠野で、黒豆大豆と発芽玄米の農業関係の会社を、2社経営しているそうです。



 最初の運転免許証は、原付1種の予定だった。高校2年生の頃である。学校にバイク通学をしている同級生もおり免許証を取るのが流行した。原付1種は50ccまでのバイクである。ところが、試験会場に行ったら、知っている友達がいて、「1種も2種もおんなじだから、2種を受けたらいいべ」と言われたのだった。そうかなあと思い、言われるがままに変更して、原付2種を受けたのだった。確か原付2種は90ccまでで、その上の125ccからが軽免許の範囲だったと思う。それで合格したのが昭和40年の出来事であった。ところが時を経て、平成20年、私の運転免許証には自動2輪が運転可能ということになっているのである。免許制度がいつの間にか変わって、既得権が既得権を生み出して、こういう結果を生み出しているのであった。
 免許の原付免許が1種のみとなり、それまでの原付2種が軽免許の範囲となった。次に軽免許が廃止されて、こういう結果になってしまったのだろう。現在自動2輪の免許を取得するためには、多額の費用と時間を必要とするらしいが。勿論、自動2輪の運転は出来るのだが、これまで社会の制度の変化で儲けものをしたというのは、唯一これだけのような気がする。
 昭和38年の第8回自動車ショーには、オートバイメーカーが何と12社もの名を連ねている。スクーターが5社である。この時代のバイクのネーミングで思い出すのが「スズキ」の「コレダ」と「本田技研工業」の「ベンリ―」だった。「コレダ」は、何かを選ぶ時に発する言葉「是だ」、「ベンリ―」は「便利」からだと名前を付けたという時代だったのである。




 年賀状配達のアルバイトをした。高校2年生、3年生の時だろうか。出勤時にハンコを押すのだが、忘れて持ってない時があった。他人のハンコを借りて押した。しばらく経って、事務所に呼ばれ女の事務員に怒られた記憶がある。判らないだろうと思って押したのだが、見破られてしまったのだった。社会の厳しさ初体験。
 区分け作業は、本局とは何故か別の場所だった。近くのどこかの学校だったと思う。後でお袋さんが見に来たと言われた。心配で見に来たのだろう。
 配達区域は、一番近くの大町・大渡であった。寒い時期に自転車で郵便局から遠い地域を指名された他の生徒に比べればだいぶ楽をした。自転車に乗るより、歩いた方が早く配達できるのだった。
 そのアルバイト料でなぜか「日清チキンラーメン」を食べた記憶がある。どんぶりに入れ、お湯を足し、皿でふたをする方式である。昭和35年発売だから、4年くらい経ってから食べた事になる。「日清チキンラーメン」が釜石に流通するまで4年かかったのだろうか。それとも、買えなかったのだろうか。当時値段はいくらしたのだろう。
「新らし物好き」「ラーメン好き」は、この頃から始まっていたような気がしないでもない。


 避けて通れない話である。
 昭和38年4月、釜石工業高校歴史始まって以来の出来事が、学校全体を包み込んだ。それは電子科に「やよひ嬢」が入学した事である。当時の学校は、2,3年が機械、造船、電気の3科、1年が機械2クラスで、造船、電気に新設の電子科で5科あった。だから学校全体の生徒数は計11クラスで440人位であった。その中にたった一人で女子工業高校生として、入りこんできたのだった。山田大沢中出身であった。この年から男女共学が工業高校に認められたのか、それとも以前から工業高校に男女共学
当時の釜石工業の校舎

が認められていたのだが入学者が無かったのかは判らないが、大変な出来事であったに違いない。卓球の愛ちゃんを面長にしたような顔立ちだった。1年時は、高校の先生の所に下宿して通学していた。
 学校にも図書館に藤井さん、保健室に小川さんと言う女性がいたから、たった一人の女性と言うわけではないのだが、余程勇気が入った事だっただろう。兎に角、一挙手一投足が全男子生徒の注目を集めるのだった。トイレは職員用を使用だったりして、学校側も準備が出来てはいなかった。体育のジャージへの着替え、或は男子生徒との体育の授業など、見えないところで大変な事であっただろう。「やよい」だと思っていたのだが、工業高校生徒会誌「港陵(昭和38年度第11号)」に掲載されている、読書感想文の名前は「やよひ」となっていた。3月生まれだったのだろうか。
 その読書感想文は「ある黒人奴隷の半生」と言う題である。感想文の中頃に「黒人の子供だって、ネコ、イヌと違ってちゃんとした人間だ。母親に対する愛情だって、持っている。なのにどうして。どれほど母親が恋しかったことだろうか。私の様に十六才になった今でさえ、こうして離れて暮らしてみると、とても恋しくなる時がある。母親の胸の中に飛び込んで行きたくなる。夢さえ見る事がある。」と記している。やっぱり、つらい時期があったと思わせる文である。
 最後は「同じ人間グループの仲間同士なのに、ただ色が黒いからと言うだけで、非難され、馬鹿にされる。こんな事では文明の進歩した現代が情けなくなってしまう。黒人があまりにも気の毒である。文化や科学をどんどん発展させることも重要な事である。しかし、その前に、ここにまだ大きな問題が残っていることを忘れているのではないだろうか。あらゆる物事の内で、何よりも重要な事が」と結ばれている。
 この文中の「黒人」を「女性」と読み替えると、なんとなく当時の彼女の意気込みが見えそうな気がする。
 そして、彼女のページのすぐ後は、なんと私の読書感想文「井伏鱒二作『山椒魚』を読んで」という、彼女が訴えた社会とは、正反対側ののんびりした文が続いているのだった。
 確か「池上通信機」に就職したのだが、帰郷して宮古漁業無線局に務め、その近くにお嫁さんになっていたと聞いたのは、亡くなってからの事だった。
 「港陵(昭和40年度第13号)」に掲載されている彼女の卒業の言葉 「一人一言」は
 「物事にあきがきたら 初めの闘志を思い出せ」

合掌


 昭和38年は、中学校卒業生に開かれていた釜石製鉄所の工員教習所が、募集停止になった年だったのだ。私も入りたかった一人だった。そういう事が、色んな人たちの人生に、多大な影響を与えているに違いない。
 募集停止になったため、工業高校に進学した同級生も多かった筈である。
 入学時には、毎朝3年生が教室に来ての「はったり」である。最初は何が起きたかわからなかった。席に着かされ、説教が始まるのだった。
 「今朝、挨拶をしなかった奴がいる。おめえら、ちゃんと挨拶してんのがあー」
 山田線、釜石線の先輩諸兄が入れ替わり、怒鳴りちらしにやってくるのだった。それで放課後は、今度は応援歌練習である。第一から第三応援歌までの他に、試合に勝った時に歌う「凱歌(がいか)」をも覚えなければならなかった。
 そして「K」と「工」の「人文字」の練習である。遠くから見た時に、両手で持った黒い学生服と中の白いYシャツとを上下させる対比で、「K」と「工」を表すのだった。だから、その位置はその人でなければならず、間違うと目立つのだった。 因みにその時の応援団長は、機械科で体操同好会を設立し、卒業してしばらくしてから、宮古で寿司屋「Y」を営んだS先輩だったのだ。貫禄があり、ギョロ目でおっかない応援団長だった。どこで「スパナ」が、「握り」に変ったのだろうか。
 当時、高校の3年生の特権は「肩カバン」だった。逆に「肩カバン」をして、通学していれば3年生という事だった。1,2年には許されない肩カバンだった。通学時に先輩を追い越すときは、或は先輩に追い越された時は、挨拶をしなければならなかったのである。帽子を取っての挨拶である。下駄履き通学も禁止になった年だった。
 舟木一夫の「高校三年生」が流行していた。三田明の「美しい十代」、西郷輝彦の「君だけを」も流行し始めていた。「平凡」とか「明星」の付録として、赤色の薄い「ソノシート」が付いていた時代より少し後になるのだろうか。



 アルバムの間から、一枚の新聞の切り抜きが出てきた。黄色く変色している切り抜きである。それは昭和40年5月19日付けの読売新聞東北版(岩手県版がまだなかった時代らしい)で「高校生が一日海上保安官(釜石)」という記事だった。そういえば、確かクラス41人の中からその体験者1名を選ぶのに、じゃんけんで私が勝ち抜いた記憶がある。すっかり忘れていた出来事である。
 記事によると、釜石南、釜石商、釜石工の3校生、32人が釜石海上保安部の巡視船「ふじ(270トン、田尻宗昭船長ら31人乗り組み)」に乗り込み、釜石湾内を一周、救命胴衣の着装等各種の訓練を受けたという記事だっ

当時の新聞記事
た。記事の中に、写真が5枚あり、その中の一枚には私と思しき人物が映っていた。家内にも確かめたが間違いないようである。それで、記事の締めくくりは釜石南高3年菊池Y(17)君が「釜石にいながら船に乗る機会が以外とすくない。こんどの経験で保安官の任務が大変なものである事がいまさらのようによくわかった」とコメントしていた。この菊池Y君とは釜石1中の2年時で同クラスであったのだ。
 船上で会った筈なのだが、記憶が無いのである。
 そして、その時の船長がのちに「公害Gメン」で、全国的に有名になった田尻宗昭さんだったらしい。船上で田尻さんに合っているに違いないのである。
おそらく「ふじ」の船長ののちに、昭和43年四日市海上保安部警備救難課長に着任し、伊勢湾に公害の垂れ流しをしている2社を摘発し、その後に美濃部都知事に請われ東京都公害局規制部長になった人だった。
 釜石の海を見て、そして四日市へ行ったから、「こんなのは海ではない。工場のどぶ溜めだ」と発言し、行動に移したのだと考えてもおかしくない。


 大相撲のテレビの解説に、元K関を見る事がある。そして、いつもの事なのだが、何故か、この人の発音を聞いていると、何か少し発音が異質だなあと感ずるのは私だけだろうか。
 釜石近辺にも「き」の発音が、私たちには「ち」としか聞こえない地域があった。これは地域全体でそうであった。また、中学校2年時の同級生の彼女は、「英語」の発音で「It is」の発音が「イット イズ」としか発音できないのだった。大部分の人は「イッティ イズ」と滑らかに発音出来るのに、彼女だけはどうしても出来なかったのである。ついにはあだ名にまでなってしまった。
「イット イズ」。
 彼女にとって英語の時間を迎える事は苦痛であったに違いない。そして、今思うと、さらに思春期の多感な時期の出来事であったのだった。現在、英語は大嫌いだと理由を言わないで、子供や孫に言っているだろうか。
 そして思い出したのが、高校一年生の時の数学の先生で、「複素数(ふくそすう・虚数単位「j」を用いる数学の問題解決方法の1種)」の「ふ」の発音が聞こえない先生がいた事だった。本人が真面目に「ふくそすう」と発音しているつもりでも、私たちには、なんと「くそ数」としか聞こえなかったのである。私たち生徒も最初は笑うのを我慢したが、どこかで笑いが漏れてしまった筈である。本人がどのように意識していたかどうかは判らない。このような場合、先生の名前を覚えているものだが、顔だけ覚え名前が出てこないのだ。しばらくすると慣れてしまって、何とも感じなくなってしまった為からかも知れない。
 先生の出身地が、どこであるかは知らないし、そこでは皆がそうだったのか、先生個人の問題であったのかも判らない。先生も何で笑われたか判らないままの人生を、その後も送っているのかも知れないのである。


 昭和39年頃の工業学校付近の国道45号線は、釜石駅の方から来ると、松原、嬉石、大平団地を通って漁業無線局の前を通過し、工業高校の上の方を通っていた。工業高校の各運動部員は、曲がりくねった45号線を南下し、平田まで行って、戻ってきてからの練習開始だった。
 その45号線に接続する為の海岸側からの道路が、学校の観音様側を通ってから、左斜めにゆっくり上がりながら国道に向かって行く道路の部分が教室から見えるのだった。
 国語担当のI先生が、突然、授業中にその坂道を見るように言った。そこには男女二人がゆっくり坂道を上っていく情景が見えたのである。二人で海岸を通って来て、国道を走るバスに乗る為なのだろう。先生とクラスの男子生徒41人全員が、アベックを見つめる情景が一瞬生じたのだった。
 国語担当で、当時独身のI先生にとって、何かを感ずる情景だったのだろうか。何を言ったか忘れしまったが、国語の時間に、あの坂道を通過したアベックは私たちの教材になってしまったのだった。国語の時間でなかったら、あのアベックも私たちの注目を集める事はなかっただろうに。また、I先生でなかったら、そういう一瞬も生じなかっただろうに。
 男子生徒41人と先生一人が、見つめ続けたアベック一組、急な坂道を登りゆく情景。
 しかし、国語担当のI先生も忘れてしまっている45年以上の前の出来事だろうし、クラスの中で覚えているのはおそらく私だけだろう。それはアベックも知らない出来事であって、バスに乗った後、ケンカ別れをしたかもしれないのである。
 それがどうしたと言われれば、返す言葉を持たない。そして、その情景をいつまでも気に留めているのは、思い出にこだわりすぎる私の悪い癖なのである。
 作家の津島佑子さんが、先頃の毎日新聞のエッセイ『うしろの正面(記憶)』の中で、書いている。
 『過去のできごとから生まれた記憶は、長い時間の中で、その人間固有のものに変わっていく』。
 あの坂道は、新しい45号線の為にすでに跡形無く、先日のPTA会報には校舎の取り壊し記事があった。



 高校生になって、最初の衝撃は、専門科目担当のS先生のテストだった。テストのわら半紙は白い所が多いのであった。そこにはなんと「何々について述べよ」と言う論文形式の設問が続くのだったのである。それまでは○×か、空白埋め、あるいは4択もしくは5択からの正しい答え、間違った答えの選択問題が多かった。そういう問題に慣れすぎただけに、ショックな問題の形式だった。結局はそういう問題に対処できず、1学期は惨憺たる成績だった。
 工業高校なので専門科目と一般科目があり、専門科目の方は、その科毎に職員室が別にあった。
 一般科目には「音楽」があり、担当が、すぐ隣の大平中学校の音楽のY先生だった。大平中学校の校歌の作曲者である。この先生と最初に出会ったのが、釜石1中の一年の時だった。昇降口の近くに特殊学級があり、その担当だった。朝礼が終わり、教室に戻る時に、私は廊下を「げんこつ握り」でコツコツ叩きながら行って、特殊学級の教室の戸も、続けて叩いていったのだった。そして、先生に怒られたのだった。それは、教室の生徒がおびえているという理由だった。大平中学校へ、先生では珍しくオートバイで通勤し、カッコいい先生だった。
 また、高校生活の中で、先生の「あだ名」は少なくなったが、一人だけ思い出す先生がいる。昭和39年頃、実家が市内で「虎舞い最中」の販売をしていて、工業学校の先輩であったO先生である。その先生の授業中の口癖が、「エート」「エート」「エート」で、しかも連発されるのだった。だから、あだ名が「エートマン」である。当時は桑田次郎作漫画の「エイトマン」が流行していた。ついには授業そっちのけで、ノートに「正」の字を書いて「エート」を数える生徒までいたのだった。「今日は何回しゃべった」とノートに「正」の字を沢山書いているのだった。



 「製鉄所の大きな工場を見ているので、釜石の卒業生は、どこの会社の工場へ行ってもびっくりする事は無かった」と、工業高等学校の進路指導の先生が言っていた。
 汽車通学で、駅を降りれば5本の巨大な煙突に、最初の頃は驚いても、次第に慣れた事であろう。そして学校までの通学路で、工場の敷地の広さと、そこで働く3交代の労働者の数の多さを、毎日、体で感じて通学していた筈である。
 市内に住んでいれば、不夜城の如くに、工場からの閃光が絶え間なく夜空に飛んで、機関車の汽笛や大きな作業音が鳴り響き続けるのだった。岸壁には鉄鉱石や石炭等の原料を外国から搬入する大型船の入出港。その為に大きなクレーンが、24時間絶え間なく動いている。製品の積み出しの為の、中小の船舶のも出入りが多い。
 そういう環境の中で、高校生活を3年間過ごせば、どこの町のどんな大きさの工場に行っても、驚く事は無かった事だろう。
 校歌は
  ♪ 黒煙渦巻き 車輪はきしる
    おお我が郷土 名に負う鉄都
 と始まるのだったが、この頃のニュースによると、時代の流れの中に消えゆく運命にあるようだ。
 校歌で思い出したのだが、卒業式で、造船科の生徒の一人に「日本造船学会賞」というのが贈られていたのが印象深い。当時は長崎、横須賀、小樽などの各地の工業高校に造船科があった筈である。全国各地の工業高校造船科で、一番成績のいい生徒に「日本造船学会賞」が表彰されていたのである。羨ましい卒業式の行事だった。



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