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モノづくりDNA 第1回大島高任



 昭和35年釜石第一中学校に入学すると、生徒は市内の小学校3校から集まったので12クラスとなった。40人クラスとしても1学年約500人となったのである。最初は同じ小学校出身者と付き合っているが、徐々に他の小学校の生徒と交流する機会も増えていき、顔馴染みになっていくのだった。しかし私のクラスには、1年生の双子3組の片方が集まっていたのだった。そんな事は、他の小学校出身者は全然知らない訳で、話しかけて変な顔をされたりしてから、後から気づいたりするのだった。3学期あたりには、微妙な違いがわかるようになって、見分けがつくようになった。
 また、中には早熟な男子生徒がいて、判らない言葉を教えて、まわりを煙に巻いていた。その言葉を国語辞典で引くと、びっくりする内容だった覚えがある。彼は13歳で、どこで覚えてきたのだろう。
 校舎は隙間だらけの木造のぼろ校舎だった。2年生の終了式の忙しい時、掃除をしていたら、ごみが階下の図書室に落ちて行ったらしい。その時の対応が悪いというので、先生にみんなの前で殴られたのは、大変なショックだった。その先生の名前を今でも覚えている。終了式で掃除を急いでいたのだが、ボロ校舎なので隙間からゴミが落ちて行ったらしい。校舎の階下からの女子への受け答えを、窓の近くにいた私がした訳で、そのまま先生に伝わったらしく、ぶんなぐられたのだった。
 技術家庭は、木工で本棚、ブリキ細工でチリトリを作成、その他に針金細工をやった記憶があるのだが何を作ったか覚えていない。中でも印象が強かったのが、「一人用テーブル」作成だった。N先生は、折りたたみのテーブルを、男子生徒全員に作らせた。80センチ×50センチくらいの集成材の板の上にポリエステルを塗って作る、一人用のテーブルだった。集成材に自分の描いた絵を張って、その上にポリエステルを塗って、折りたたみの金具を取り付けて完成だった。みんなが板の4隅を切って、丸くしていたのだが、私は反対側の2隅だけを切って、D型のテーブルを作り誉められた。ご健在のご様子で、「たたら」等の実験でたまにテレビ等で拝見している。
 また、新卒で新任の、女性の数学担当のM先生は、悪童達のからかいの格好のターゲットとなっていた思い出もある。



 当時の釜石第一中学校は弁論大会も盛んであった。私もどういう訳か1年時に参加するはめになってしまった。クラスの役割分担に学習部とか生活部とかがあって、私は風紀部だった。風紀部は授業が始まる前に、生徒が着席しているように注意する役目もあったのだが、体が小さいにも関わらず、大きいのにも注意していたから、選ばれてしまったような気がする。放課後に廊下を挟んだ隣の教室からも、H君の弁論の練習の声が聞こえてくるのだった。担任のA先生は、2人だけ残った教室で、何回も何回も、泣きたくなるくらい、繰り返し、繰り返し練習するのだった。ある時には、何と釜石一中を卒業した、高校生を連れてきて指導したのだった。しかし私が気になったのは、弁論の内容が、クラスから集めた中から一番いい内容のものを、私が弁論する事であった。クラスのM君の書いた論文を私が弁論するという事である。聞く人は私の体験だと思って聞いたに違いない。確か母親に感謝する内容の弁論だった。しかし、そうした先生や先輩の指導のおかげで校内大会で3位となったのだった。
A先生は「恵義」と言う名だったが、「これを何と読むか?」とクラスのみんなに聞いたまま、正解を教えずじまいだったような気がする。正解は「まさよし」では無いかと思っているが、今だに不明である。数学担当で、チョ―クを持った手がズボンに触れるのを防ぐ為なのか、いやなのか、チョークを持ったまま、手の甲でバンド付近を触ってズボンを何度も上げる癖があった。
お別れの、ガリ版刷りの文集は「惜春鳥」と言う名がつけられていた。先生が付けた名前だった。今、一羽は手元にいるけど、他の40羽以上の「惜春鳥」はどこをどのように飛んでいるのだろうか。
先生にとって、生徒は40数人毎年変わるものだけれど、生徒にとって先生は一人でその年限りである。



 中学校で変ったのが「算数」が「数学」になった事と、「英語」の授業が始まった事だった。最初の英語の時間に、「英和辞典」と「和英辞典」の違いを先生に質問したりしていた。
 それにびっくりしたのが先生達の「あだ名」の数々だった。先輩諸兄より受け継いだ、その数々の「あだ名」を今でも覚えている。
 「あだ名」がつくのにはそれなりの理由があるのだろうが、その理由が判らない「あだ名」があった。体育のK先生に「ゲルマン」と言う「あだ名」がついていたが、その謂れは判らずじまいだった。歴史の「ゲルマン民族の大移動」に関係したのだろうかと、推測するのがせいぜいだった。「バッサリ」も判らない「あだ名」だった。社会担当のF先生である。ところが、私は「バッサリ」と覚えていたのだが、他の人がそれは「モッサリ」ではなかったかと言うのだった。どっちがF先生の「あだ名」であったか今でも判らない。しかし「バッサリ」にしても「モッサリ」にしてもその起源は不明である。「アチャコ」は、大阪弁もしくは京都弁どちらかの関西出身のS先生で、その口調に独特の特徴があったから、納得がいった。「ミルクタンク」も女性の先生で判った。「人工衛星」と言うあだ名のO先生がいた。教室に入ると、教室を必ず一周してから授業を始める理科の先生
当時の授業風景

だった。生徒に「鉄1キログラムと綿1キログラムはどっちが重たいか?」と問い、間違って「綿」と答えたのが小学校時代の親友だったと聞いた。
 「ゲンコツ」はどうして付いたかが判るでしょう。
 「あだ名」は生徒たちが少しでも先生に親しみを込めるために作ったものなのではないだろうか。あだ名が無い先生は、担任以外、余程の事が無い限り(たとえば前述の殴った先生とか)、半世紀近く経つと、思い出すことは無いのである。

 大平中学校第1回卒業生である。中学校第3学年になる時、釜石第一中学校より分離独立し、大平中学校として発足したのである。
校長が大洞先生で、釜石第一中学校より近野、佐藤、川村先生らが新設学校の創設の苦労をしたのだった。
 発足当初は校舎が無かった。校庭もなかった。3年生の一学期は、一中の体育館を間仕切りしたところで学習し、2学期は隣の釜石小学校に移った。3学期になって、ようやっと新校舎に移った。釜石工業高校の反対側の山を切り崩した処に立った4回建ての新校舎だった。しかし校舎だけあって、他の付属施設は何もない教室だけの学校のスタートだったのだ。小佐野中学校の火災で竣工が遅くなったと記憶している。暖房付きの教室だったので、一階にボイラー室があり、ボイラーマンが鈴木さんだった。
 
また掃除もこれまでのやり方と違って、床にワックスをかけなければならなかった。この器械の操作には、要領が必要で慣れるまで時間がかかった。回転するので重心が移動するのだった。操作に慣れた頃にはお別れの校舎となった。体育館もないので、卆業式は釜石工業高校の体育館を借りて行われた。 
昨年の還暦祝いには、近野、川村両先生が参加してくれた。しかし、先生の姿はいつまでも変わらないなあと思うのは私だけだろうか。あれから、45年も経っているのに、先生たちは昔と同じだったのだ。


 昭和36年の中学一年生になりたての、夏に近い頃の出来事である。釜石第一中学校と石応寺の間に、キリスト教の教会があった。当然、屋根の頂上に十字架があった。外国人の宣教師もいた筈である。そして、その道路を挟んで反対側の近くに、小さなラーメンの店があった。
 そのラーメン店に、同級生が私を誘ったのだった。学校の帰り道だった。教会の近くに住んでいる、郵便局長の息子 K君であった。中学校を地元とする近くの小学校出身の生徒に誘われて、断る理由は何もなく、彼にラーメンを奢られたのだった。そして、その食事の場面を同じクラスの女の子達に、見られてしまったのである。夏が近いから、店の戸は開いていたのである。
 次の日、私は職員室に呼ばれ注意を受けたのだった。「学校の行き帰りに、飲食をしてはいけません」という担任の先生からの注意だった。K君と一緒に注意を受けたかどうかは忘れてしまったが、注意を受けたのだった。 
 「学校の行き帰りに飲食をしてはならない」というのを知らなかったと言ったとしても、「生徒手帳」に書いてある筈だと言われれば、返す言葉もない。「生徒手帳」よりも、友達との付き合いを優先した結果、あるいは「生徒手帳」よりも「ラーメン」を優先した結果が、職員室での注意だったのである。
還暦となってしまったこの頃は、このような事態があった場合は、明日に「毒を」持ち越さないようにアルコールでの精神消毒生活、それに伴うらしい大きないびき(私の知らない無意識の世界)で解決を図る術を覚えたのだが。
 なんで今頃になって、昔の出来事が、こだわりを持って、チクチク刺すのだろうか。
思い出すにK君がどういう意図をもって、私を誘ったのか?そして、そこを、同じクラスの女の子達が偶然に通って、その場面を見る確率は何パーセントだったのだろうか?店の戸は閉まっていても良かったのではないだろうか?開けたままにしたのは誰だったのだろうか?と「思い出」がチクチク刺してくるのは何故なのだろうか?
 推理小説の読み過ぎだろうか?それとも、ラーメン店の近くのキリスト教会のお導きなのだろうか?或いは、青春時代を懐かしむ過ぎる遺伝子の為なのだろうか?
 中学生の頃から「アルコール」での精神消毒生活をしていれば、こんな悩み?なんか生じないものを。
 K君も、告げ口をした女の子達も、担任の先生もみんな全て忘れているのに、何で私だけ、それも今頃になってから、こだわっているのだ。
 私が「思い出」にこだわり、伝道しようとする限りにおいて、その悩みは増すことはあっても、いつまでたっても解けそうもない。



 中学校の修学旅行は、日光東照宮を経由して東京だった。なぜか中学校の修学旅行には、一枚の板を用意させられた。幅30センチ長さ1メートル位だっただろうか。何に使うかというと、座席に渡して横になる為だった。釜石から東京まで何時間かかった時代だったのか。夜行列車の座席で、横になる為に仮のベットの板だった記憶がある。
都内の観光バスで、男の生徒達みんなが騒いだのは、窓から外車が見えた時だった。釜石でも見た事が無い外車が走っていたのである。なんと言う外車であるかは、判らずとも外車である事は判るのであった。
また、本郷の東大の赤門前を通過した時、バスガイドさんが「湯島通れば思い出す、おつた、力の二人づれ」という歌を、歌ってくれた思い出が強く残っている。修学旅行から帰ってきて、そのバスガイドさんから手紙が来た。
 東京での三越本店では、自由行動の時間があった。そして、東京では、日本橋の三越本店の屋上でだけ、親戚と会う事が許される場所だったのだった。親父さんの姉さんが府中で暮らしており、三越屋上で待っていたのだ。初対面ではないのだが、親父の姉さんと旦那さんと、その娘さんたちが私の到着を待っていたのだった。
 しかし、挨拶を交わした後の、私の一言は「買い物をしたいので、一人にして下さい」だった。府中から日本橋まで、折角会いに来てくれたのに。
 今となってからの、修学旅行での恥ずかしく苦い思い出である。





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