戻 るかまいしnetトップ
モノづくりDNA 第1回大島高任




 
小学生低学年の頃、近くに通訳の「スズキさん」が住んでいた事があった。「スズキさん」は20代後半ぐらいだっただろうか。住んでいたといっても、間借りして夫婦と小さな子ども二人で住んでいたのだった。
製鉄所に外国船が入港した時に、通船(つうせん)で通訳として外国船に乗り込んでの仕事である。通船は、製鉄所に鉄鉱石などを運搬してくる外国船等が、入港待ちで沖合に停泊した時に、人や食料品を運ぶ小さな船の事である。その為に「○○船食」と言うような会社が存在した。「スズキさん」は、たぶんその会社の所属だったのではなかっただろうか。
 ある朝、「スズキさん」は井戸で歯磨きをしながら、私に「「おはよう」は英語で『グッドモーニング』と言うんだ」と教えてくれた事があった。『イエス、サー』も教えられた。
 なぜ、その時の事を覚えていたのかを考えるに、英語の「グッドモーニング」と言う言葉の新鮮さと、いっぱしの大人として扱われたような錯覚のせいであったのかも知れないと思う。「グッドモーニング」は、その後使う機会が無いままになってしまったが、その時の強い印象だけは脳裏に残ったままである。
 「スズキさん」には、山田町出身のきれいな奥さんがいたが、何らかの理由があったのか、奥さんは子ども2人を残したままいなくなったのだった。
 当時「スズキさん」の周りで、どんなドラマが展開したか知る由もないが、あれからあの幼い男女の子供達に、どんな人生が広がっていっただろうかが、「グッドモーニング」を聞くたびに気にかかってくるのであった。




 この時代の大部分の家には風呂は無かった。近くに東北電力の社宅があっても、共同浴場だった。それで銭湯がいつも混むのであった。秋になるとサンマ船とかが入って、漁船員たちが沢山銭湯に入っている時は、また大変だった。
 大体行く時間は決まっていて、同級生たちと風呂で遊ぶ事もあった。潜ったり、水を掛け合ったりして、大人に怒られることもしばしばだった。冬の寒い日に銭湯に行くと、帰りの寒さで坊主頭の髪が、がちがちになることもあった。値段はいくらだったか思い出せない。おそらく一週間に2回か3回位しか行けなかっただろう。



 色んな行商の人たちがいた。
 朝には豆腐と納豆を売りに来るアルバイトの学生さんがいた。「とーふー、とーふー」と言いながら売っていた。リヤカーにガラスケースがあるのは団子やのおばさん。金魚屋さんもリヤカーで来た。ほうきを売る人もいた。背中にほうきを何本か持ってあるいてやってきた。
 ポン菓子というのだろうか、「爆弾」屋さんも機械を積んだリヤカーを引っ張ってきた。米を預かって機械に入れ大きな音を出すのだった。アイスキャンデー屋さんは自転車で来た。寒くなると、焼き芋屋さんもリヤカーでやってきた。夜には中華そばの屋台を引くおじさんもいた。何か鳴らしていた。30円か50円だっただろうか。
 自分の家には、遠野からおばさんが背負い駕籠で野菜を売りに来ていた。お茶飲み話等をして、顔馴染みになって、家の子供の名前や、内情に詳しくなっているのだった。あのおばさんたちにも、それぞれ商売範囲があったのだろう。
 富山の薬売りも来て、子供に油紙を膨らませる紙風船をくれた。魚屋のおばさんもいた。近くには骨董屋さんのおじさんが住んでいて、いつも何かを手に携え、或は背中に背負って運んでいた。気難しそうで、声も聞いた事が無かった。商売相手は、おそらく製鉄所のお偉方さんだったのだろうか。


 さんまのとれる時期になると、製材所では魚箱作りが始まる。現在は発砲スチロール製になっているが、あの時代は、製材所で魚函を作っていた。サンマが縦に2本入る位の長さで高さが10センチくらい、幅が40センチくらいだったろうか。あの時代は尺貫法だから、それに合わせたきりのいい数字だったのだろう。最初枠を作って底板を4,5枚打って魚函を作っていた。
 学校から帰ると、製材所で魚箱作りをしている同級生もいた。裸電球の下で、釘を口に含み、手と足を程よく使って、魚箱を組み立てていく様は、一端の職人だった。一個組み立てて、何円だったのだろうか。その働いたお金が親父の酒代に消えたなんて事が、あったのかもしれない時代であった。(あの当時、一函作って一円だったと、還暦の同級会で聞いた)


 初めてテレビを見たのは釜石駅待合室だった。黒山の人だかりで、遠くからしか見えなかった。力道山のプロレスだっただろうか。昭和32年頃である。次に町内のクリーニング屋さんにテレビが入り、玄関先で相撲を見せてもらった。次にテレビが入ったのが、近所の製鉄所の社員の家だった。妹や弟たちは、家の中に入り込んで見ていた。


 風邪を引いて、親が初期状態の風邪だと判断すると、何故か、ガーゼにネギを包んで首に回されるのだった。時間がたつと、縦に刻んだ長さ10センチ位の白いネギの部分が黄色くなっていた。すると、またネギを交換して首に回される。ネギには、風邪に対しての何らかの薬効がある事が、民間療法もしくは漢方としてなのか、親たちには広く伝わっていたらしい。
 それでも悪くなって、熱が上がり寝込んだ場合には、「水まくら」が用意される。現代のように家庭の冷蔵庫で、すぐに氷の準備が出来る訳ではなく、水の交換だけを何回もしなければならない。額にかけるタオルも、洗面器の水の交換を繰返さなければならない。そして寝床の枕元に「桃」とか「みかん」の缶詰が用意されるのだった。それは食欲が無い場合であって、普段食べない物を与える事によって、食欲を刺激し栄養補給する意味があったのだろう。それでも悪くなったら病院へ行くのだった。
 それらの缶詰も貴重品だったが、「バナナ」は、もっと貴重品だった時代である。
そして時代は変わり、平成となって息子の剣道の先生が「試合の前にバナナを食べさせなさい」と言うのだった。それで、バナナの栄養価が高い事を初めて知った。
昔の風邪は、もしかして「ばなな 1本!」で、治ったかも知れないと、秘かに思っている。
 風邪をひいた時は、寝ていればいいのだが、中耳炎になった時は、目立って格好悪く恥ずかしかった。「眼帯」みたいに「耳帯」とでも言うのだろうか、黒い5角か6角形のビニール製のカバーを耳全体にかぶせるのだった。その為に、頭に3本以上の紐を回されるのだった。この頃、そんな光景を見なくなった。治療技術の進歩で、耳帯をしなくても中耳炎が治るようになったのだろうか?


 5月になると、大きな「鯉のぼり」を揚げる家が町内にあった。3世代同居の商売をしている家だった。
 その「鯉のぼり」は、たいそう大きく、黒と白の父さん鯉、赤と白の母さん鯉は、それぞれ5m位あったのではないだろうか。その下に、黄色や青や白や赤のカラフルな小さめの子どもの鯉が2匹掲げられるのだった。当然「鯉のぼり」を揚げるための支柱の木の棒も高かった。風が吹くと、てっぺんの金と黒で彩色された風車が回って、吹き流しや鯉は大きく口を開けて空中を泳ぎ始めるのだった。町内で一番大きかった。釜石でも一番大きかったかも知れない。
 その時期になると、毎朝お父さんが揚げて、夕方には仕舞っていた。その家の伝統行事とはいえ、急に雨が降りだすと、仕舞わなければならないし、お父さんの苦労は大変なものだっただろう。しかしその苦労も、子ども達の健やかな成長を願う親心の前には、小さな事であったに違いない。
 今も、変わらず「鯉のぼり」があがっているだろうか。あがっていれば50年以上の、家族の伝統行事となる。
 庭には「グミ」の木があり、子供の為の1m四方の砂の遊び場があった。そこで「ドン」遊びをした。
 また、私の家には電話がなく、その家の電話番号が、我が家の家呼び出し電話番号だったのだ。当時、電話というのは緊急の用事であって、夜昼構わず、かかって来るのであった。かかってくれば、誰かが呼び出しに行かねばならない。そういう家族の労苦に対し、今にして感謝の気持ちを伝えておかなければならないと思うようになった。
改めて
 「ありがとうございました」。


 夏になって、蚊が出没する時期になると、蚊帳の出番となる。部屋の大きさで何畳用というのがあった。部屋の4隅につり下げて、蚊の侵入を防いで安眠する為のメッシュの防具である。だから、蚊帳からの出入りには、極力注意を払わなければならない。蚊が入らないように、すばやく出入りしなければならないのである。しかし、いつのまにか蚊は侵入しているのであった。
 朝になってから、今度は蚊帳の中の蚊を、人間様が逆襲するのであった。蚊は逃げられないのである。蚊帳の隅に追い込まれた蚊は、両手で畳みはたかれるのだった。蚊は、家族の誰かの血をいっぱい吸いこんでいるから、手のひらには血がついているのだった。子供たちの夏の朝のラジオ体操の予備運動。両手挟みたたき運動。


 便所は、離れた場所に造り、廊下でつなぐか、屋外に別棟にしていた時代。匂いの問題から、大部分の家がそうだったのではなかろうか。それで、昼間はいいのだが、夜になると小さい子供にとって便所に行くのは、恐怖なのである。家から離れているし、電灯は2燭光1個。おかあさんが一緒についていって、待ってくれるうちはいいが、真夜中はお母さんを起こさないと、便所に行けない事になってしまう。冬場は、特に寒さもある。
 そこで登場するのが「おまる」である。携帯用・子ども用夜間臨時便器とでも言いましょうか、夜間、寝る所に置く便器である。「おまる」は風呂に持って歩いた桶を楕円形に大きくして、前面を少々高めにして持つ事が出来る形状にしたものである。蓋が付いている。それを寝床に置いておくので、便所に夜通わなくてもいいのである。朝に「おまる」を持って、便所に返すのも子どもの役目である。しかし、たまに大きいのがあったりするのだった。「おまる」を掃除する竹製のブラシみたいなのもあったような気がする。
 また、当時は昼間でも便所の戸をあけて、お母さんに見守ってもらっている幼い子供たちを、よく見る事もあった。子供には閉所恐怖症があるのだろうか。それとも、そばに誰かがいる事を、常に確認したいのだろうか。便所が家の中に含まれるようになって、見られなくなった光景である。


 あの毛糸を巻いたのは何だったのだろう。お袋さんは毛糸が輪になった束を、肩幅に広げ前に差し出した私の両手にかけて、自分は向こう側で、毛糸を引っ張って、玉にして丸くしていくのだった。あの毛糸は、おそらく、一回編んだ物をほぐして、洗った物だったのではなかろうか。体に合わなくなったとか、そういうセーターをほぐして洗った毛糸だったのではなかっただろうか。
 毛糸が右の手に来た時、手首をちょっと曲げて毛糸を巻き易くしてやる。また、左手に来た時も同様である。毛糸を引っ張るラインをなるべく中央にする為に、両手を左右に振りながら、それをしなければならなかったのである。慣れるまでには、要領を体で覚えなければならなかった。しかしリズム感を持ってやっても、必ず途中で絡んで引っかかるのだった。その時は、両手から毛糸全体を,はずしてやりなおすのだった。小学生の頃の手伝わされた出来事である。妹や弟はそういう事が出来ない年齢だったと考えると、おそらく4年か5年の頃の出来事であったのではなかろうか。
 手編みのセーターと言えば、現在はかっこよく聞こえるが、おふくろさんはそうして一度ほぐした毛糸を利用して、再度セーターを編んでいたのだろう。 


 昭和30年代初めの頃、洗たくは『洗たく板』と『丸たらい』による手作業だった。『洗たく板』は『丸たらい』より少し長めだった。『丸たらい』が2尺(60センチ)あったとすれば、『洗たく板』はそれより長かった筈であるから、2尺3寸(69センチ)くらいあったのではないだろうか。幅は7寸(21センチ)位かな。板の各上下4寸位を除いて、板に横に波型模様が連続して刻んであるのだった。両面そうだったか、片面だけだったかは、記憶にない。突起を付けて摩擦を多くして、洗たく物のよごれを取り易くするためだったのだろう。当時『石けん』は固形せっけんで、厚さ3センチ位、横×縦が7×10センチ近くあったのではなかろうか。『ニッサン石鹸』とか『アデカ石鹸』があった。『アデカ』とは、後にメーカーの旭電化の、旭の「ア」、電の「デ」、化の「カ」の頭文字等を取ったものだと知った。石鹸の中央に、大きくカタカナで「アデカ」とあった。これらの固形石鹸は乳白色と言うより「餃子」の色に近かった。
 お袋さんは『丸たらい』に水を入れる。洗濯物を水に漬ける。『洗たく板』の一片を『丸たらい』の向かい側に置く。先ほど述べたように、『洗たく板』の方が長いので、『丸たらい』に斜めに掛かることになる。そこに洗たく物を置いて、水を付けて石鹸でこする。こすった後に、洗たく物だけをこすって泡立てして汚れを取る。それを一枚一枚繰り返して、洗たくの第一段階終了となる。第二段階は「すすぎ」である。井戸の「ジャッカンポンプ」に持って行って、何回も水を変えながらすすぐ。第3段階は「脱水」であるが、結局は手絞りである。力を入れて両側がら洗たく物を絞るだけである。第4段階で、紐を張って、洗たく物を並べて天日乾燥となる。だから、天気の良い日を選んでの洗たくとなる。雨が降ってくると、急いで洗たく物を取り込まねばならなかった。
 合成洗剤で洗濯機は進歩を遂げ、最初の頃は1回分の洗剤量が150グラムだったものが、現在はスプーン1杯の25グラムだそうである。乾燥機能まで付加され、これから先、どのような進歩を洗濯機はしていくのだろう。
 そういえば、反物を洗って糊を付ける細長い「洗い張り」の作業台があって、おふくろさんが使っていたのであった。あの台も見る事はない。



 まだ上水道が普及していなかったので、各家庭には、「ジャッカンポンプ」があった。構造は、きわめて簡単で、水鉄砲を連続して噴射するのと同じで、くみ上げる時に気密を保つようにして、地下水の水位を徐々に上昇させて、くみ上げるのである。脇に「川本式」とか刻印されていた。形状はひょうたんの下部が直線型を想像すればよい。鋳鉄製で、本体上部から、中のシリンダと連結するハンドルがあり、シリンダとハンドルを上下させる事によって水をくみ上げる。
 何で「ジャッカン」と言うのかは不明で、どこまでの地域で、この言葉が通用するかも不明である。推察するに、あの音に関係しているのではないだろうか?くみ上げる時に「ジャッカン」「ジャッカン」と聞こえる為なのではないだろうか。鋳鉄製の本体の出口に、ブリキ製の丸い筒を付け、その先に布袋を付けているのが大部分だった。時間がたつと、布袋は茶色に変色していくのだった。井戸の水質がそんなにいい所ではなかったのだろう。浅い場所からの揚水だったのだろう。町内には、道路際に共同の「ジャッカンポンプ」もあり、何軒か共同で使用していた。流し台もついていた。勿論その何軒だけでなく、遊んでいる子供たちも使用していたし、基本的には誰が使用してもいいのだった。
 そして、家の前の道路に水道管工事が始まったのも、昭和30年代だった。



 昭和29年、私の小学校入学を期して、宮古から釜石へ一家が移民したのだった。父、母、私、妹、弟の一家5人だった。そこには2階建ての社宅があった。2階建てと言っても、2階は6畳一間と押入れだけで、一階は8畳と押入れ、3畳、台所と玄関の小さな社宅だった。周囲には、平屋の長い社宅一棟とそれに連なっての共同浴場。離れて便所。会社の車庫と運転手詰所の建物、その2階に寮があった。大きな倉庫もあった。
 製鉄所の下請け企業として、これから会社を大きくしようとしていた社長は、「ラビットスクーター」で現場回りをしていた。
 そして釜石に移民した私たちが、清水町(現在の只越町?)の社長宅でご馳走になったのが「ライスカレー」(当時はカレーライスではなくライスカレー)だったのである。おそらく昭和29年の3月か4月頃の出来事である。初めて見て、味わう洋食と言うべき「ライスカレー」だったのである。当時の「ライスカレー」は、小さな缶に入ったカレー粉から作った時代だったのではないだろうか。
 その後、何年かたって、我が家でも「ライスカレー」を食べるようになったが、社長の家と違って、ひき肉の「ライスカレー」であったのだ。そして、ひき肉を買いに行くのは、いつも私の役目だったのである。たまに薄切りのソーセージが入っていたのではなかっただろうか。
 ところが、この話題をしたら、魚をカレーに入れていたという漁村出身の人に出会った。もしかして、その魚は「カレイ」だったのかしらん?



 お袋さんの実家は山田町だった。その昔は資産家で町の中央に居を構えていたらしいが、「かまけえす(釜を返す・破産)」して、駅の西の山側に移った。
 昭和30年代初めの、山田駅の西側は何もなく、県の施設である「恵風園」の他に民家は2,3軒の数える限りで、高台にあるお袋さんの実家からは、山田駅を発車するディーゼルカーが見えたのです(現在は、家が沢山建ち並び、見る事が出来なくなった)。見渡す限りの田んぼの周りには、赤とんぼ、麦わらトンボ、塩からトンボや鬼やんまが飛び交い、小川には、赤い腹をしたイモリ等がいた。夜になると、うるさい位のカエルの大合唱が一晩中鳴り響くのだった。
 お袋さんの実家では、お婆さんが豆腐を作って売っていた。豆腐からの作りたての「油あげ」に、醤油をかけて食べるおいしさは、また格別だった。
 そして、風呂が「五右衛門風呂」だったのである。「五右衛門風呂」とは、お寺の大きな鐘をひっくり返したような鉄製の釜の中に水を入れ、下から薪を焚いて、中の水を温める仕組みのお湯である。地面に釜を掘って埋めるのではなく、地面に火を焚く隙間を取って、釜を地面に立ててあるのである。中に入るには、浮かんでいる木製の「すのこ」に乗らなければならない。周りの鉄の部分には、熱い所もあるので注意が必要だった。それより難しいのは、「すのこ」に上手にバランスを取って、入らなければならない事である。「すのこ」を体の重さで傾かないように、釜の下の方に落ち着くまで上手に出来ればいいのだが、これが難しいのである。一人でバランスを取るのも難しいが、二人で一緒に入るのは、なお難しい事だった。当然、釜から上がる時もまた注意が必要だった。



Copyright (C) 2008
Kamaishi net. All Rights Reserved.