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モノづくりDNA 第1回大島高任



 近くに児童公園があった。少しの広場があって野球をしていた。その広場で、夜になって映写会が開かれた。その付近の住民が集まり、大人も子供も一緒に見た。大きな白い布を張って映写機の音がしていた。確か衛生思想についての映画を見た記憶がある。
 また広場の上に小さな動物園があって動物達が飼われていた。タヌキやキツネもいた。市営で飼っていたのである。そこには何と、熊も飼われていたのである。熊を身近に見る事が出来たのだった。狭い畜舎の中を右往左往するその畜舎の匂いに何か記憶がある。現在は考えられない出来事である。



 通学路で、道路まで竹が伸びている事があった。近くに2軒あっただろうか。1軒は二人で、もう1軒は一人だった。竹で「よこだ」を作る職人の店である。「よこだ」とは割った竹を組んで、魚を入れる容器の事である。取っ手も付いていた。現在はプラスチック製に変わってしまい、見る事が出来なくなった。
竹を割っていく。幅が3から4センチ位だろうか。そしてその割った竹の節を削り取る。竹は、そこからしなやかになってしまう。「撓う」という状態になってしまうのである。それを器用に手と足を使って,そして素早く交互に組みこんでいく。「よこだ」が出来ていく、その組み立てられていく手口は見事なものだった。頭の中にその順序が組み立てられているのだった。あのような状態を体が覚えているというのだろうか。一日に何個作ったのだろう。学校帰りに、しばらく見とれた事が何度かあった。現在ではもう見られなくなった職人芸である。
 また、大工さんがカンナを使って、木を削っていく手口も、また見事だった。そのような職人芸を、身近に見る機会が、現代の子供達には無くなってしまっているのも残念な事象である。
※「よこだ」は「ばんで籠」または「ばんじょ籠」とも呼ばれていました。
しなう【撓う】弾力があって、折れずに柔らかに曲がる。たわむ。しなる。


 一番釜石の賑やかな時代の夜の繁華街が、旭町であった。現在は別の名前になっているらしい。製鉄所の線路の方から町に入ると、どこの飲み屋からも大きな声が聞こえてきた。入り口も開放されたままで、船員たちと女給さんたちの歓声が、道路まで響いていた。入り口にも大きなネオンサインがあったが、各店にもそれぞれ光輝くネオンサインがあった。真ん中付近にハートのマークに矢印を刺したネオンサインの店があって、あれは何のマークだと?同級生たちの興味を集めた店もあった。矢の浦橋の出口側の方は急に暗くなり寂しい道となった。昼間でも通るのは、遠慮気味だった。あの通りに数多くの男と女のドラマが展開したことだろう。



 昭和35年にチリ地震津波が来た。
朝、表が騒がしいので、2階の窓を開けて道路を見たら、同級生の女の子がいた。どうした?と聞くと津波が来るらしいとの事。地震もないのに津波が来るなんてと不思議に思ったが。起きて、矢の浦橋に向かった。確かに河口に水は無くなっていた。その河口に、通称「がんちゃん」がいるのが見えた。
 いまみたいに防災無線みたいに、住民に通報するシステムが構築されていなかった時代である。釜石の被害は少なかったが、宮古地方は被害が甚大だった。
 それにしても、太平洋を挟んでの対岸であるチリから津波が来るなんて考えられない出来事だった。あの頃は、小さな津波が何回も来ていたような気がする。側溝を水が逆流してきた思い出が何回かあるのである。



 あの時代にはまだ「公害」という言葉は無かったのではなかろうか。いつからこういう言葉が出来たのか。それにしてもこの言葉が行き渡ってしまった現在ではどうしようもないが,企業からの環境汚染であって、公という言葉の使用に?を付けざるを得ないと思う。
 製鉄所の東端を流れる川は真っ黒で通称が油川だった。また屋根の樋が油煙の重さで落ちてくる始末だった。風の強い冬場に遊んでいると、目にその油煙が入って痛くなるのだった。仕方ないので近くの内科医に行った。小さい子供にはお母さんのおっぱいが、いいというので横抱きされておっぱいを目にかけて貰っていた子もいた。
 誰もがそれらの出来事は、仕方ない事だと諦めていた時代であった。駅前の大渡橋に分かれる付近から、東門までの間の製鉄所の壁に大きな絵が並んでいた。「立て、万国の労働者」的な拳を上げて赤旗を振る労働者の大きな絵が多かった。それらにも、そのような公害に関する文句は無かったように思う。労働組合も、また社会の一般認識そのものも、そういう一面に目を向ける余裕が無かった時代だったのだと思う。それにしてもあの駅前の労働者の絵を描いたのは、どこの人だったのだろう。写真でもいいから、もう一度見たい情景である。絵の下を歩く労働者は、朝、夕の三交代時に延延と続いているのだった。



 美空ひばりが、2回釜石に来た。製鉄所の招待だったのだろうか。それとも労働組合の慰安会だったのだろうか。2回とも旅館の前は大変な人だかりだった。どっちが先かわからないが、一つは、現在の国道45号線で宮古へ向かう時に東北銀行から釜石第一中学校までの間の右側の旅館だった。まだ国道45号線が大渡に通っていた時代である。二階から美空ひばりが顔を出して大騒ぎになった。別の時は昔の市民病院の付近の旅館であった。この時は顔を見ることは出来なかったが、道路一杯の人だかりだった。
 それにしてもあの頃の美空ひばりは、何歳だったのだろうか。なんか、思い出に自信がなくなってくるが、思い出に間違いないと思っている。
 美空ひばりが釜石にきた一度は、昭和30年らしい。石川勘吉氏の経営する映画館「錦館」のこけら落としだったようだ。
『新装なった錦館でこけら落としに美空ひばりを呼んで二日続きのショーを行った。ひばりは押しも押されぬ人気歌手。釜石にくること自体、大変な事だった。当時、石川勘吉の盟友だった前島和夫氏はこんな話をしてくれた。『ひばり側は釜石までいくんだから3日は興行してくれないということだった。いくらなんでも3日は興行的に持たないと判断して一日は花巻の劇場に持ってもらった。すごい客が押し寄せましたね。あれだったら3日興行しても良かった。ひばりは鉄屋旅館に泊ってもらいました』(「宮古の映画館物語(P228)より(鬼山親芳著)」




 近くの山に遊びに行くと、大きな窪みが所どころにあった。直径10メートルくらいだろうか。中心部がへこんで初め
はなんだか判らなかった。後で太平洋戦争の艦砲射撃の跡であることを知った。昭和20年7月14日と8月9日の2回、2時間にわたり、昼間に攻撃が行われた。爆撃機も来襲して、市民1千名余りがなくなったそうである。 山のへこみはその時の沖の軍船から陸地目指して、無差別に打ち込んで爆発した跡である。住宅街にも当然撃ち込まれただろうが、こっちは整地されて、どこに落ちたか跡形が無くなっているが、少し山に入るとその傷跡が残っていたのだった。しかし山の中には不発弾もあっただろうが、そんな事は気にしないで山道を走りまわっていた。あれから半世紀。山の傷跡も笹に隠れてしまっただろうか。
 また近くには防空壕もあった。高さ2メートルくらい、奥行き5メートルくらいだろうか。入り口はふさがれていたが隙間があって夕方になると、蝙蝠が出入りしていた。なぜか棒の先に赤い旗を付けて振ると、蝙蝠を捕まえられるという言い伝えが子供たちに有って、夕方になると防空壕の前で棒を振っていたものである。
 釜石が受けた戦争の傷跡を、後世に知らしめる為にも、山の中の艦砲射撃の跡と、防空壕の周りを整備して、それぞれ一つぐらいずつ残してもいいのではないだろうかと思う。



 釜石から宮古までトラックに載せて貰う機会が2,3度あっただろうか。小学生高学年の頃だと思う。昭和34年か35年の頃だろう。運転手の川崎さんから「行くか」と言われると嬉しくて「いすゞの5tトラック」の助手席に乗った。当然、荷物の上げ下ろしを手伝う事が条件であった。当時の45号線は曲がりくねった道の連続で、宮古まで行くのに半日かかった。大渡橋の手前を右折し、小学校の脇を通って、トンネルを通って,水海に出る道路だった。船越のイロハ坂はまさに曲がりくねって、なお且つ海岸端を通って危ない道だった。道路でトラック同士が行き合うと、どっちかがバックしないと通行できない道幅であった。運転手同士でどっちがバックした方が、早く行き交う事が出来るか判断しなければならなかった。当然バックする事が出来る広場が近い方が、バックしなければならない運転手同士の不文律が存在していた。バックする方は助手が出て道路から広場まで合図しなければならないような道路状況だったのである。宮古で荷物を降ろして帰っての一日であった。また、道路が悪いから、荷物を落とすのも多かったらしく、リンゴ一箱拾ってきた話も聞いた事があった。
 現在も昔の45号線の名残を、所どころ見る事が出来る。そういえば気仙沼まで乗せてもらった事もあった。何時間かけて気仙沼まで行ったかが思い出せない。遠くの方を思いだしそうなものだが、近くの方を覚えているというのはどうしてだろう。
あの当時から、国道、県道、市道、村道を、酷道、険道、死道、損道と言って揶揄していたのではなかろうか。 




 社会人軟式野球が盛んな時期だった。大平工業、産業振興、釜石化成、製鉄原料、郵便局、市役所、信用金庫、富士製鉄等のチームがあった。
 五の橋を渡って昭和園球場まで、製鉄所の線路を歩いて応援に行った。と、言うのも近くに、父親の働く会社の野球部の寮があったからだった。会社の野球部の朝の練習に工業高校のグラウンドまでついて行った事があった。その頃は現在の工業高校のグラウンド(観音さんの下)は無く、V字方の谷間で、畑があって肥溜めが道路の下の角にあった。その肥え溜めにボールが入ると大変だった。朝霧の中の練習だった。父親の会社のチームは結構強く、国体にも県代表として参加し、記念の風呂敷などを父は貰っていた。ピッチャー大丸、キャッチャー芳賀、サード斎藤、ショート松田、ファースト瀬戸選手等が記憶にある。
 また軟式と共に準硬式の社会人野球も行われていた。軟式のボールにはAの刻印があるが、準硬式はBと刻まれていて、通称「トップボール」と呼ばれていた。「トップボール」は不規則にバウンドする為、打球は捕りづらいのだった。1,2,3とバウンドするのではなく1,2、――――3とバウンドする感じの球だった。慣れないと捕れない打球だった。
 また硬式野球では、昭和34年の都市対抗野球に東北地方代表として出場した富士鉄釜石は、1回戦 リッカーミシン3−2、2回戦 日本鉱業日立5―1(9回表4点)、3回戦 日鉄二瀬3−2(9回表2点)、準決勝 大昭和製紙4−3(9回表2点)と逆転、逆転(野球の場合は「逆点」がよさそうだが)で決勝まで勝ち進んだが、四国代表の丸善石油に6−4で惜敗したのだった。
 会社の名誉を賭けて、また会社も従業員の士気を高める為に身近なスポーツとして力を入れ、社会人野球の盛んな時期だったのではないだろうか。



 
「グッドモーニング」で書いた、スズキさんが井戸で使用していた歯磨きは、「スモカ歯磨き粉」であった。蓋が確か赤と黒に(?)彩色された、厚さ1センチ、径8センチ位の円形の金属性の容器に、歯磨き粉は入っていた。煙草の煙の「スモーク」に合わせたネーミングだったのだろう。
 「スモカ」は、煙草飲み専用のヤニ取りの歯磨き粉として売られていた。現在でも、チューブ入りの煉り状であっても、「歯磨き粉」と発音、表現する場合が多いが、本当に粉状であって、缶の上でくしゃみなどしたら大変な事になってしまう。歯ブラシを水に浸し、それに缶の粉を付けて、歯磨き開始となる。現在も「スモカ歯磨」は、煙草飲みのヤニ取り専門の「赤缶」、葉緑素入りの「緑缶」を『粉状』(パウダー)で売っているのでした。
 しかし、人の歯磨きを覚えていても、自分の歯磨きの記憶が薄いのはどうした事だろう。



 学校から映画教室に歩いて行く時に、後ろから来る車の音を聞いて、その車の車種を当てて、自己満足していたのは小学5年か6年の頃だろう。エンジン音を当てた一台が、「プリンス」の「グロリア」だった記憶がある。あの頃は製造が「富士精密工業」で、販売が「プリンス自動車」で製造・販売が分離していた。
「スバル360」とか「マツダクーペ」の軽自動車から、いすゞの「ヒルマン」、日野の「ルノー」、日産の「オースチン」等、イギリスやフランスのメーカーの車も国産化されていた。「ヒルマン」は、確か東京から大阪まで婦人の運転によるエコランを実施していた。当時リッター何キロ走ったのだろうか。
 日産の「ブルーバード」「セドリック」、トヨタの「コロナ」「クラウン」の国産組もあった。通称だるま型の「コロナ」から、次の「コロナ」になった時、ボンネットが運転席側でなく手前に開いた時はびっくりした。車の脇からエンジンルームを点検するのだった。
 いすゞの「横転ダンプ」も、従来の後ろにダンプするのではなく、横にダンプするのだった。片側だけでなく、場所によって任意に、両側にダンプしたのではないだろうか。何か必要があって開発したのだろう。
 「ボンネット前開き」といい「横転ダンプ」といい、自動車に様々な発想を持ち込める時代に進展していた。
 中学生になると、新聞広告を見て車の「カタログ」を収集するようになった。ハガキに「住所・氏名とカタログ希望」とだけ書いて出していた。何週間かすると、「・・・・」様と、書かれた郵便物が届くのだった。カタログ収集も面白かったのだが、「・…」様で一人前として扱われたような嬉しさもあったような気がする。当然自動車は買えないのだが。
その頃に収集した自動車カタログ一覧
@ 三菱500スーパーDX(594CC,25PS) 
A プリンス スカイライン DX(1484CC,70PS)
B 日野 コンテッサ1300(893CC,35PS)
C 日産セドリック カスタム(1883CC,88PS)
D ダットサン ブルーバード(980CC,45PS)
E 日産セドリック(1488CC,71PS)
F いすず ヒルマンミンクス(1494CC,62PS)
G トヨペット・クラウン1900DX(1897CC,90PS)



 秋祭りだったのか山神社のお祭りだったのか、不明だがとにかく盛大だった。大渡から、市営ビルまでの東側の道路は、露店が連続して並んでいた。隙間なく色んな店が並んでいた。わた飴とかの食べ物の店とか、子供のおもちゃやお面の店、金魚すくい。何か額縁に入った絵、富士山とかの風景画も売っていた。近隣から集まってくる人の数も多く、人混みと言う雰囲気を味わう初めての場所だった。
 傷痍軍人が各街角に2,3人くらい立って、何故かアコーディオンを奏でていた。どの街角も、すべてアコーディオンだった。白衣を着て、カーキ色の帽子をかぶって立っていた。松葉杖をついた人もいた。また、救世軍が慈善鍋を置いている場所もあった。
 湾では虎舞いを乗せた曳き船が行われ、道路では、神輿を中心にして鹿踊り等が舞って、祭りの行列は延々と続くのだった。



 
大町に「丸光デパート」が出来たのは30年代後半だったのではないだろうか。ちょっと、調べてみても不明である。仙台資本だった。
 それまでは、市内で「及新デパート」が最大で、東前にあった。市営ビルより東側で、まだ向こう側である。駅から東前まで、及新デパート目指して歩く人たちが沢山いた。5階には子供の遊び場があって、何度も遊びに行った。遊びに来る親戚の子供たちの目的も、5階であった。エレベーターはあったような気がするが、まだエスカレーターはなかった。しかし丸光が大町に出来てからは、東前まで歩く人たちは激減したのだった。丸光にはエレベーターもエスカレーターあった。デパートの規模も格段に大きかった。また、大渡には2階建ての「東殖デパート」もありました。



 
製鉄所構内の輸送手段は、トラック等もあったが、鉄道も轢かれてあった。デイーゼル機関車が、多くのトロッコを引っ張って走っていた。その運転の為にも、専門の部署が存在した事だろう。
 製鉄所用地の中で、港までの原料・製品の搬入・搬出が全て済めばいいのだったが、そうはいかなかったのだ。市道とか県道とかの公の道路と、交差しなければならなかった場所が2か所あった。その場合、鉄道と交差する道路との、踏切が必要になる。
 東門付近に中番庫(なかばんこ)への踏切があった。
 只越町と旭町の間にも、桟橋へ出入りする踏切があった。おそらくそれらの踏切には名前がついていた事だろう。
 只越町と旭町の間の踏切は、桟橋が2つあったので、それぞれへの踏切の開閉する当番のいる小屋があった。その踏切の間が長く、開閉は忙しかった。踏切と踏切の間に挟まれるのは、いつもの事だった。
 秋になると、急いで通り過ぎようとする為か、線路の凹凸がある為か、トラックで運ぶサンマが落ちている事が多かった。
 線路の脇には、溶鉱炉から出た鋳鉄の「ナマコ」が大量にあり、船に積み込む為の一時的な貯蔵所になっていた。「ナマコ」とは鋳鉄の小さな塊であって、食パンを横に大きくしたような物で、これをキュ−ポラ等で溶かして、最終的に製品の形にする。
 30年代後半には、道路上の高い場所に、原料の石炭を専用に運ぶベルトコンベアラインが出来上がり、踏切の開閉もある程度少なくなった。
 書きながら思い出したのだが、製鉄所から、平田の埋立地まで、市内の松原、嬉石の山中の地下を通って、鉱さい(のろかす)を運ぶ為の専用の鉄道が通っていた筈である。確か、嬉石のどこかに、そこに通じる出入り口があったように思う。使用しなくなったとすれば、何か再利用できないのだろうか。おそらくトンネル内は年中定温ではないだろうか。一度通ってみたいものだが、現在はどうなっているのだろう。


 
隣町に「へいしゃ」があった。子どもの頃の事だから「兵舎」だと思わずに、意味も判らず使っていたのが「へいしゃ」だった。「兵舎」と言う事は、「兵士」が住んでいたという事である。どのような任務を持って、どの位の数の兵士が住んでいたのだろうか。また、2棟だけの兵舎と言うのも少ないような気がする。隣接して、広大な製鉄所の原料置き場があった(現在の警察署付近)から、そこにも兵舎があったとも考えられる。昭和30年頃であるから、戦争が終わって、10年近くたっている。その間に壊され、2棟だけになったとも考えられなくもない。
戦争当時の兵舎

母親が知っている人が住んでいたので、何回か尋ねて行った事がある。長屋が2棟あって、中央に通路があった所までは記憶にあるのだが、2階建てだったような気がするのだが、兵舎の中の記憶が皆無である。おそらく当時は市管理の住宅になっていたのではないだろうか。
現在は、どこにあったかもわからない周辺の状況となっているから、尚更あったと言う記録だけは、残しておかねばならない。


 
私は「標準語」とは言わず「共通語」と言う。「標準」と「共通」では、意味が全然違うのである。国営放送のアナウンサーが喋っているのは「共通語」である。言葉に対して「標準」と言うのはあり得ない。「標準語」そのものが、あり得ないのである。そういう意識を植え付けようとする国や官僚は、改めるべきであろうと常々思っている。
 「そうだべ?」
 「そだべんたら!」
 「そうです」と言う共通語にしても、静岡地方では「そうずら」、茨城、栃木地方ではで「そうだっぺ」と日本全国各地で違うのである。県内でも、盛岡では「うだなはん」、宮古地方では「そうだがねえんす」である。
 釜石で、共通語の「そうです」と言う意味の
 「そだべんたら」を使うのは女の子で、男は「そうだべ」だった。男の子が「そだべんたら」と言う事はあり得なかった。基本の言葉で、男女が違う言葉を用いるのも珍しいのかも知れない。この言葉が、釜石のどの範囲で使うか判らないし、土着の言葉だったか、移民の言葉だったかも判らない。どういう起源があったのだろうか。
 中学校を卒業した同級生が、東京に行って、2階の人に向かって、「落ちてこう」と言ったら怒られたという話が忘れられない。釜石ではと言うより、自分の育った所だけなのか、「落ちて来い」も「降りて来い」も同じ意味として使われていた。厳密に考えれば「落ちる」と「降りる」はだいぶ状況が違うが、地域全体では通用していた。
 私も、釜石に移民してきたばかりの小学校入学時に「父やん、母やん」と言ってみんなに笑われてしまった記憶が強く残っている。こういう事は笑われた本人だけが覚えていて、笑った他のみんなは忘れてしまっているのである。
 漁村であった釜石に製鉄所が出来、私たちみたいに、移民が多数来た。そして満潮の潮が引いて干潮になったかの如く、釜石の人口が減って、君津や名古屋へ行ってしまった。その慣れない地で、釜石からの移民たちは、釜石の文化を広めているだろうか。
 「そだべんたら」
 「そうだべ」
 「おちでこう」
 方言も文化だ。
 人とともに多様な文化も移っていくのだ。



 
近くでの買い物する店は、伊藤商店で通称マルイであった。伊の字を丸で囲んであるのが建物の上に飾ってあった。太ったおばちゃんの記憶はあるのだが、旦那さんの記憶は全然ない。新聞紙で袋を作っての子供用の各種くじから、文房具、食パン、野菜まで何でも揃っているのだった。5円で飴10個買った思い出もマルイ商店だった。まだ、50銭が通用していた時代。マルイでの買い物には現金が無くとも、「通帳(かよい)」があれば大丈夫であった。「豆腐買ってこう」とお袋さんに言われると、豆腐の入れ物と「通い」を持って、マルイに行った。「通帳(かよい)」に買った品物と個数を記入して返してもらうのだった。そして、親父さんの給料日にあわせて、通帳は合計金額が清算されてくるのです。
 しかし、通帳は、いつのまにか店に置かれるようになって、持っていかなくとも、買えるようになっていたのです。
 通帳(かよい)と言うのは、その時の社会状況にもよるが、お互いの信頼関係が無ければ出来ない事である。また、通帳を店に置くという事は、その家の家族構成を店のおばちゃんが把握した結果だったのだろう。
 通帳といえば、就職で釜石を出ていく時に「米穀通帳」というのを持たされた時代だった。「住民票」の移動とともに「米穀通帳」が必要だった。また社会人になってから、行きつけの飲み屋に「通帳」を作って、意気がっていた若い時代もあった。


 
小学生の頃、びっくりした出来事があった。
 道路の反対側に住む、隣合わせのお婆さん二人が、犬猿の仲で、顔を合わせると口喧嘩を始めるのだった。それも時間も、人目もはばからずに、声高くののしり合うのであった。朝早くから、井戸の側で始める時もあった。そのケンカの原因については、釜石へ移民した私たちには知る由もなかったが、どうも土地の境界にあるらしかった。そういう争いの原因の大部分は、先代を含め、あいまいで不十分な意志の伝達によることが多いのだが、隣同士だけに、悲惨であり、長年争いが続いて行く結果となってしまう。どちらのお婆さんも、気の強そうな顔付きであった。ただ、その昔は、仲が良かったという噂を聞いた覚えもある。
 ケンカが始まったからといって、そのケンカを見る為に、外に出る訳にもいかず、家の中で静かにするしかなかった。
 片方のお婆さんは道端の側溝をまたいで、腰を屈めて着物の裾をちょっと上げ、小用をしていた。そんな事をするのは、そのお婆さん一人だけだった。お婆さんも、人が通っていても、気にする気配もなかった。そういう時代だった。


 
子どもの頃に使った言葉に、「がほった」と言う言葉がある。共通語では「がっかりした」「疲れた」と言う意味だろうか。国語辞典には「がほる」は記載が無い。
インターネットで調べると、北海道の方言が、ちょっと発音が違って、「がおる」だったが意味は同じだった。
北海道は歴史が新しく、北海道の方言だと言っても、結局は全国各地の出身者の言葉が、入り混じっているだけなのではないだろうか。
もし「がほった」が釜石の方言であったとするならば、釜石から北海道(可能性として製鉄所のある室蘭)へ言葉が伝わって、訛ってしまったのではないだろうかと、考える方が面白い。
しかし、その他に「はんかくせえ」とか「おだずって」という言葉についても、聞く機会が少なくなった気がする。どちらも大人が使う言葉であるが、「はんかくせえ」若者や、「おだずって」いる子どもがいなくなった訳ではないのだが。



 
親父さんの会社で、社内のリクレーションがあると、親父さんにかだって(加わって)、様様な行事に参加した思い出がある。
 五葉山への登山、和山牧場、根浜や水海での海水浴等々である。参加する人の中に、写真を趣味とする人がいたらしく、写真が残っているのである。
 五葉山では、登山者同士での挨拶のやりとりを知った。途中、水無(みずなし)での休憩。そして、丁度お昼頃に着いてのおにぎりの旨さ。太平洋が見える山に上った征服感。五葉松。しかし、次の日の筋肉痛。
 和山牧場では、大人に交じってバレーボールをしたし、草の上に横になっている写真が残っていた。
 根浜ではスイカ割りの写真等が残っている。
 水海ではアワビを食べた記憶がある。
 思うに、現在の「経済の効率・利益一辺倒」の社会情勢の中では、考えられない家族同伴、OKの社内行事だったのではないだろうか。親の会社で大人に交じって、そういう色んな体験をした事は、いい経験をしたと思っている。
 また、我が子どもにやり残してしまったと後悔している事に、登山の体験があると思っているのは、この時の体験があるからだ。


 見た記憶はあるのだが、果たして、それがどこだったろうかという具体的な記憶になると、定かでないのである。しかし、確かに見た記憶はあるのである。
玄関の上に飾ってある光る魚を。確か「鏡魚(かがみうお)」という名前ではなかったのではないだろうか?
 インターネットで調べると、何と「遠野物語」にその記述があった。
「閉伊郡の海岸地方では、軒毎に鏡魚といって、やや円形で光沢のある魚を陰干しにして掛けておく。魔除けだと言われる(遠野物語拾遺220)。」
 「遠野物語」の採集をした佐々木喜善は、「海岸地方では」と断っているように、実際には見た事は無く聞き書きなのであろう。釜石と遠野の交流を示す事実ではあるのだが。
 辞書で「鏡魚」を調べてみても、そんな魚は見当たらない。「鏡鯛」という魚はあるのだが、三陸沿岸では捕れそうもない福島県以南の魚である。しかし、その形や光具合は、確かに記憶にある「鏡魚」に間違いないようである。
 思い出してみるに、玄関に飾ってあった家は、たしか漁師の家だったのではなかっただろうか。
 すると「魔除け」というよりも、「海上での安全祈願」の意味があったのではないだろうかと考えられる。
 「鏡鯛」は、蒲鉾の原料になるらしい。福島県以南の方へ、釜石の漁船が出かけて行って「鏡鯛」を捕ってきたとも考えられるし、「鏡鯛」が漁の時に、偶にかかったのを玄関先に飾ったとも考えられるのである。
  この風習が、釜石で昭和30年代前半まで続いていたのは確かな事である。


 外国人が「MOTTAINAI」といえば、初めてその価値を再認識する日本人の悪癖は,将来も変わりが無いだろう。
 家の親父さんは、明治の終わりの頃の生まれだった。戦争で物資の窮乏を経験しているのがあるかもしれないが、この世代の人達に、常日頃から共通しているのが「勿体ない」だった。そういう教育が学校のみならず、社会の共通認識としてあったに違いない。明治生まれのみならず、日本人には昔から「勿体ない」が体に染みついて生活していたのだが、このごろは、廃れ気味だから、改めて「MOTTAINAI」となったのだろうか。
 親父さんの「勿体ない」の極め付きは、釘の手直しだった。物の梱包が木箱で会社に来た場合、その木箱についた釘を集めて来るのだった。それを小さなレール上で、釘を金槌でまっすぐに伸ばすのだった。夜になると「チントン、チントン」と始まるのだった。しかし、その釘を活用するまでもなく、缶に一杯のまま釘は錆びてしまったのだった。ただただ、勿体ないという気持ちだけで、釘の手直しをしたのだろう。


 現在の地図をグーグルで見ると、すべて跡形無いのが鈴子町である。残っているのは「釜石駅」だけだと言っても過言では無い。
 当時は、大渡小、釜石一中の通学範囲で、駅前には製鉄関連事業所の釜石出張所とか、楽器屋さんとかドライアイス屋さんが並んでいた。駅の大渡側には、なぜか民間住宅もあった。そこに行くためには、見えない踏み切りを、自主判断で越えていかなければならなかった筈である。西側の「五の橋」の袂には、製鉄所の労働組合の建物があった。労働運動のスローガンの垂れ幕が掛っていた。何かの催しで一回入った記憶があるのだが、広いホールがある建物だった。 
 製鉄所正門前には製鉄所の病院があった。その北側(大渡川側)には立派な相撲場があった。富士製鉄釜石をはじめ、実業団相撲が盛んな時期だった。砂利道を行けば、製鉄所の神社もあったような?弓道場もあったような?


 また、中学校卒業で入れる製鉄所の「工員養成所」も鈴子町にあった。正式な名前はわからない。昼間は働いて、夜間勉強していたのではないだろうか。給料を貰いながら、勉強したのではないだろうか?「養成所」に入ると、製鉄所の中堅技術者としての将来が開けていたが、私たちの年から募集中止になった。
 そこでやむなく、工業高校に進んだ同級生も多かった。卒業時は景気が悪かったので、畑違いの警察官になって、県警のトップレベルまでのぼりつめた同級生もいた。
 しかし、前年に入学した人達も、高炉廃止に伴い、釜石に残ることなく君津や東海に、生活基盤を作らざるを得なかった。
 そして今、どのような思いを巡らせているのだろうか、釜石に。
 どこに、どのような運命が待っているのか判らないものだと改めて思う、人生は。


 町内は1,2,3丁目まであった。3丁目は幹線道路を隔てていたので、あまり遊びに行かなかったので詳しくはないが、町内には色んな店があった。魚屋、豆腐屋、米屋、お茶屋、肉屋、酒屋、床屋、下駄屋、薬屋、魚加工屋、屋根(トタン)屋、電器屋、竹屋(よこだ、桶の製作)、呉服屋、クリーニング屋、フロ屋等があった。
 他に私たちが5円握りしめて飴玉を10個買った店は、文房具や雑貨の他に、惣菜とかで主婦も相手にしている店が2,3軒あった。
 しかし思い出すに、八百屋の記憶がない。山田線や釜石線のおばちゃん達が、「しょい籠」に野菜を詰めて釜石に運んでいたから、八百屋は必要なかったのではないかと思う。また、小さいながらも畑を自宅前に持っている家も多かった。
 釜鉄関連会社では、飯場、寮、車庫、倉庫、工務店、鉄工所(3)、配管工事会社、営業所兼所長宅、スクラップ屋等があった。
 また内科医院、東北電力社宅、特定郵便局、郵便局長官舎、駐在所、消防屯所、幼稚園、神社、児童公園、漁業部事務所、衛生社、製材所(3)、自動車整備工場(3)等々。(()内はその数)
 下宿屋さんもあった。商業、工業学校が近いので、高校生や先生を相手の下宿屋さんがあった。テントを作っている会社もあった。飴を作っている所もあった。看板は掲げてないけど骨董屋もあった。気難しそうなおじさんと、その娘さんの二人暮らしだった。洋服の仕立て屋さんもあった。お客さんが来るような場所ではなかったので、どこからか頼まれて仕立てをしていたのではないだろうかと今になってと思う。質屋さんもあった。塀に囲まれた質屋さんで、私たちも中に入ることはなかった。
 変わった所では、「箱屋」があった。厚紙を加工して箱を作っていた。お盆の時の「落雁」とかを入れる紙製の容器を作っていたのである。紙をプレスする機械や針金でとめる機械があって、道路から作業している様子が見えた。
お母さんが紙を並べて糊を伸ばしていたり、おじさんが器用に手と足を使って、機械を操作していたりして家族全員の家内工業だった。箱の上蓋は、中が見えるようにくり抜いて、そこにセロファン紙を貼っていた。くりぬいて不要になった厚紙を貰って、なにかと遊んでいた。
 隣町にも、色々な店があった。私たちの町に無かったと思われるのは、靴の修理屋、タクシー屋営業所、パーマ屋、食堂、ブロック工場、缶詰工場、小学校、高校。
振り返るに色々な店が町内にあったなあと思う。何しろ当時は自転車が唯一の交通手段で、それも親父さんが使っているので、購買の為の行動範囲は限られてしまうのである。だから、近所に様様な店が展開した時代だったのではないだろうか?
 50年経った現在、釜石でも、車で県都に買い物に行く時代になってしまったのではないだろうか。昭和30年代の残っている店は何軒あるだろう。



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