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子供たちの風景


 昭和30年代に、子ども用自転車はあったのだろうか。もしあったとしても、御目にかかれない地方の町であった。小学4,5年の頃だろうか。大人の自転車に乗ることが流行した。あるいは大人の自転車で遊んだと言った方が正しいのだろうか。大人の自転車と言っても、現在のマウンテンバイクとか多種多様でカラフルな自転車とは、異なる実用一点張りの荷台付きの自転車である。現在の婦人用自転車みたいに、ハンドルとサドルをつなぐフレームが曲線で下の方で繋がっていれば、またぐことが出来るのだが、それが出来ない三角形の直線の自転車ばかりだった。当然、大人のようにサドルに乗ってペダルを踏む事は、身長が足りず出来ないのである。そこで、子供達の考えた大人用自転車の乗り方は、「三角乗り」だった。三角のフレームの中に片足を入れ、向こう側のペダルに乗せる。ペダルを一番低い位置にして足を乗せる。ハンドルを握って、バランスを取りながら、もう一方の足を手前のペダルに乗せる。これが「三角乗り」である。このタイミングの取り方や、自転車全体のバランスのとり方が、子どもには大変難しかった。朝、早起きをして、親が自転車を使わない時間に練習するのである。坂道を使って覚えた。側溝に落ちたり、自転車が反対側に転んだりして、本当に体で覚えたという感じである。少し向こう側に傾けて運転するのが、三角乗りのコツだったが、向こう側に傾けるというのが出来るまで、しばらく時間がかかるのだった。
 現代では、何歳用と区分された各種のカラフルな子供用自転車が、店頭に並んでいる。
「三角乗り」は、その時の身長でなければ乗れない過去の芸となり、忘れ去られる死語となってしまった。



現代の子ども達にも、カード収集が盛んなようである。収集というよりはそのカードで勝負を競っているらしい。「遊戯王」とか言って、色んな要素を組みあわせて、子ども達がカードのゲームを楽しんでいる。
 私達の子供の頃にも、切手収集や相撲力士のプロマイド(ブロマイドが正しいがなぜかプロマイドと言われていた)を集めるのが流行っていた。相撲力士のプロマイドは駄菓子屋で天井から一本の紐でくくられた袋(新聞紙で作られている)束の中から、一枚を選んで買うのである。5円で飴が10個買えた時代で50銭銅貨があった時代。相撲力士が化粧回しをつけた白黒の名刺大のプロマイドである。しかし、プロマイドの価値が高いのは下位の力士のプロマイドであった。「安念山」「信夫山」等々、数が少ないからである。何しろ,横綱、大関のプロマイドはみんなが持っているのである。「鏡里」「東富士」「栃錦」「千代の山」。ありえないことだが、新入幕の力士のプロマイドなんぞ、もっていたら大いばりする事ができた。また、交換の方法も当事者同士の価値観で決まるのであった。1枚と2枚の交換というようにである。           
 しかし現在のように、お金を出してまで専門店で手に入れるというのはどうかと思う。一枚3千円の物もあった。子供もお金のかかる時代になってしまった。いや、子どもそのものが、経済社会の一員に組み入れられてしまったと言う事だ。


 自転車に乗って、紙芝居屋さんはやってくる。曜日と時間は決まっている。自転車の後ろの荷台に、紙芝居の道具と、売り物の飴を積んでやってくる。その紙芝居を見る為には、5円の飴の棒を買わなければならないのである。入場券みたいなものである。
 そして、その飴の棒を紙芝居が終わるまでに、鉛筆の先端みたいに舐めあげるのである。紙芝居が終わったあとに、みんなは飴の棒の先端の鋭さを競うのである。こぞって飴の棒を紙芝居屋さんに見せるのだった。その先端の鋭さを見極めて、紙芝居屋さんは、一番の子どもにおまけをくれるのだった。おまけは、確かもう一本の飴の棒だったと思う。紙芝居の面白さの他に、もう一つの楽しみだった。どの紙芝居屋さんもそうだったのかは判らない。それぞれのテリトリーがあったのだろう。しかし紙芝居の面白さは忘れてしまっても、白い飴の棒の方だけ覚えているのはどうしたものだろうか。おそらくは、いつも紙芝居に参加できる訳ではなく、周りで離れて見た時の記憶の強さなのではなかろうか。5円の飴を買えなかった為。


 漫画本は月刊だった。男子は「少年」「冒険王」「少年ブック」「少年クラブ」「漫画王」「ぼくら」、女子は「少女」「少女ブック」「なかよし」「りぼん」「ひとみ」等々があった。これらの本は「回し読み」という方法で見た。「少年」を買うのはケンチャン、「冒険王」を買うのは良平君というふうに、それぞれが買う雑誌を決めて、見た後は、他の人に順番に回す仕組みである。「回し読み」という言葉は、現在、死語に近い。
 「いがぐり君」「ロボット三等兵」「月光仮面」「鉄人28号」「鉄腕アトム」等々が人気であった。付録に「少年探偵手帳」というのもあった。モールス信号や手旗信号が掲載されていた。
 もう一つ、別な漫画のルートとして、「貸し本屋」があった。雑誌よりは小さいが厚かった。これらの漫画は、独特の世界を形成していたのではないだろうか。一冊借りていくらだったか思い出せない。
 いつのまにか「少年・少女の月刊誌」も「貸し本屋」も、その姿を消してしまった。


 現代は各学校にプールがある。海や川が近くにあってもそうである。いつの頃からかそうなってしまった。海が危険だという考え方も一理あるだろうが、しかし昔世代には何かおかしいなあと思ってしまう。まあ、昔の学校では泳ぎ方を教えるという、考えはなかったと思うが。
 夏の暑い日に、皆で海水浴場に行く。朝は何時まで外に出てはだめという決まりがあって、その時間が来るのを待ちかねて出ていく。夏休みなので地域の集団で上級生、下級生が入り混じっている。赤旗が立っていると遊泳禁止である。白旗は泳いでもいいという合図である。嬉石の缶詰会社から工業高校下のホテル太平洋までの間に浜が三か所あって、それぞれ第一、第二、第三海水浴場と呼ばれていた。第一は上流に団地があって、泳げるような状態ではなかった。第三はホテル太平洋の横にシェルのタンクがあって、石油の荷揚げのために桟橋があった。その桟橋の鉄骨の上から飛び込んだり、桟橋を走って行って飛び込んだりしていた。また、観音さんの平田側にも泳げる場所があった。
 大体、泳ぐ場所はいつも決まっている。通称『第二海水浴場』の入口側だった。小さな岩が所どころにある岩場だった。赤ふんどしを巻く。周りから木を集めて火を焚く。体を温めるためと、たまにシュウリ貝を焼く為である。広い砂浜ではなく、岩場が多い所で、後ろから押したり、押されたりしながら泳ぎを自然に覚えていく。唇が赤紫になるまで遊んで火に暖まるのだった。赤紫になって鳥肌になって震えている者もいた。少し泳ぎが上手になると、少し離れた『太鼓島』に向かうのである。また、潜り方も教えられて上手になっていった。一日いっぱい海にいるので背中の皮が真っ黒になって剥けるのである。また、銭湯に行って、風呂に入ると痛いのであった。一夏に何回皮が剥けたとかを自慢し合っている者達もいた。潮風を浴びながら、食べた「おにぎり」のおいしさ。
 今は太古島も埋め立てられて、どこにあったか判らないし、赤ふんどしもどこかに消えてしまった。


 遊びというよりも、食糧確保の一手段。食料の少ない時代であった。「おやつ」という言葉さえ自分達とは、無縁な世界の言葉であると思っていた。そういう時代の子ども達には、自然界の色んなプレゼントがあった
 ころ柿、桃、スグリ、桑の実、柿、やま梨。
 中でも野イチゴは、手軽に口に出来るものだった。取ったイチゴを入れる為、アルマイトの弁当箱が必需品だった。薔薇のとげや藪の中を歩き回って、どうにか弁当箱に半分くらいになる。帰ってから、弁当箱に水をいれる。そうすると小さな「蟻」が出てくる。山の中では、弁当箱に入れる前に、口に入れることもあったので、蟻も食べていたということになる。
 しかし、山の中を歩くにはそれなりの覚悟が必要だった。大変なのは、漆にかぶれる事である。「光っている葉っぱが漆だから気をつけろよ」と上級生から教わっても、椿だか漆だか判らないのである。その他に、蔦漆もあった。かぶれると、顔が水ぶくれ状態になることもあった。とにかくかゆくなっってしてしまうらしい。痒くて、体中、手で触った所に移るので、小便するのも痛いという男子児童もいた。
また、自然界のプレゼントには色んな味があった。「スグリ」も独特な味だった。その「スグリ」と「アイス」を一緒に続けて食べると、頭がおかしくなると言う妙な言い伝えもあった。だから、「スグリ」と「アイス」は一緒に食べた事は無かったのでした。
  桑の実は食べながら、口の周りに紫の液汁を塗りたくって遊んだ。 
現代の子ども達は、山に入る事もないし、野イチゴ等も食べる必要も無い。


 釜石には「トラ舞い」もあるが、「陣屋遊び」もあった。現在は「陣屋遊び」はすたれてしまった。どっちも釜石の漁業の地域での伝統行事である。漁業は、姉妹都市の富山県朝日町と関係あるのだろうか。
 「陣屋遊び」は5月5日の、「子どもの日」の遊びである。
 陣屋は、山の斜面を切り取った、ちょっとした平地である。先輩諸兄が造ってきた、その地域伝統の場所である。5月5日を目標に、餓鬼大将の下に準備を始める。まず、陣地の真ん中に大きな柱を倒れないように建てる。そしてフライ旗(大漁旗)を準備したり、自分達で小さな万国旗を、クレヨンや絵の具で描かねばならない。そのフライ旗や描いた万国旗を、長い紐に取り付けて、建てた柱の高い所から吊り下げる。とにかく、他の陣地に負けないように華やかにしなければならないのである。反対側の山でも同じように進んでいる事がわかる。私達の時には無かったが、以前は、5月4日の深夜に相手の陣地を壊しに行ったらしい。その名残か、5月4日の夜から、陣屋遊びは始まるのである。夕方にみんなが集まって、裸電球の下で、ブリキ缶を叩いたり、相手の出来具合を確かめたりして、気勢を高めるのだった。
 5月5日の当日は、太鼓を叩いたり、運び込んだブリキ缶を鳴らしたりして、朝から一日中陣屋で過ごす。お菓子を持ち込んだり、お昼ご飯を食べたりした。大きな音を立てても、大人達は何も言わなかった。子ども達の既得権だった。
 そういう遊びが当たり前の事だと思っていたが、後に釜石地方特有の子ども達の遊びだと知った。その伝統の中に、どういう歴史があったのだろうか。5月5日という日も、最初からそうだったのか。後から「子どもの日」に合わせて変更したのか。あるいは、日本のどこかから、そういう遊びが伝わってきたのか。大変興味深い。
一つ言える事は、釜石の中でも、陣屋遊びが伝わっているのは、浜に近い一帯だけという事である。フライ旗を掲げるのも、漁業に関係ある事の伝承だと思う。釜石にも「北まわり」で北陸地方から漁業が伝わっている。その人たちは通称「越中さん」である。
「陣屋遊び」は、三陸沿岸の漁業の中でどのような歴史を秘めていたのだろうか。子ども達の遊びの中に地域の歴史を垣間見る事が出来る。
勿論、現在は廃れてしまっている。


 「チェ」というのは、釜石の中でも、住んでいた地域限定ゲームだったのか?今もってして、わからない。呼び方が、もしかして「バッタ」なのだろうか?「ばった」であれば少しは通用するのだろうか?
細かいルールもあるし、地域限定ゲームだったとは考えられない。
長方形の厚紙で幅3センチ、長さ10センチくらいで、パタンと同じような絵柄が描いてあった。私達は、これを「チェ」と言った。
 この遊びには、「スカン」と言って、鉄製の穴あきの輪(直径10センチ、内径7センチ、厚さ3ミリ程度)が必要である。
 例えば5人集まったら、10枚賭けと言う事で、各自10枚ずつ出し合う。次にジャンケンで順番を決める。一番は、その50枚を、親指を上にしてひと掴みし、あらかじめ決めておいた1.5メートル間隔くらいの線の向こう側に、できるだけ片手を伸ばして、腰を低くして投げ込む。ゆっくり、静かに投げ込むと、偶にその50枚は離れないで一塊になる。この状態を「モッチャ」と言って最良の状態である。今度は、その「モッチャ」に向かって、「スカン」を投げ込んで、触らせなければならない。ところが「スカン」にはそれぞれ特性が合って、地面に当たってから戻ってくる度合いが微妙に違うのである。「スカン」をどの位置に投げれば、「モッチャ」に当てる事が出来るか。戻りすぎて、外しても駄目であるが、当たって「モッチャ」の上に停まれば、「チェ」は全部自分の物となる。この場合は、「チェ」が一塊の「モッチャ」となったから、残りの4人は注文を出す事が出来なかったが、線の向こう側に投げ込んだ「チェ」は3つにも4つにも、分かれる事が多い。それは、一枚だったり5枚一塊だったりする。一番後ろの「チェ」を「トン」、一番前を「マエ」と言った。3つの塊に分かれた場合の呼び名は、一番前が「マエ」、真ん中が「ナカ」、最後が「トン」である。5つに分かれた場合は、まえから二番目が「ナカマエ」、4番目が「トンマエ」となり、各自がそれぞれ、「トン」「ナカ」と注文を出す。なるべく「スカン」で当てにくいところを注文する。注文はダブっても、かまわない。スカンでそれぞれの注文を全てこなした場合は、50枚自分の物となる。注文をはずした場合は、その人からは貰えず、注文をこなした人からは10枚貰って、次の人の番となり同じ事の繰り返しとなる。



 現在は持っている事だけで警察に逮捕されるカスミ網であるが、昭和30年代、規制は皆無だったのだろう。餓鬼大将のもと、カスミ網を張って、反対側から集団の一員で鳥の追っかけをした。「紅マヒコ」と言う渡り鳥だったのではなかろうか。一匹も捉える事は出来なかったような思い出がある。
 野鳥の「目白」や「鶯」を飼っている大人たちが多かった。目白は縦長の鳥籠に飼っていた。上の方には巣があって、止まり木を何回も宙帰りしていた。その鳴き声の連続性を争っていた。長くさえずる程、いい「目白」という事である。鳥籠を並べて争っている大人たちを見る事があった。子供にも預けられていた場合もあった。擂り餌を与える時間になると、遊びをやめて世話していた子供もいた。自分でも、どういう訳だったか「ほうじろ」を飼っていた事があったが、餌を与える時に逃がしてしまった。「ほうじろ」はすぐ近くの山を目指して一直線に飛んで行ったのだった。その時に、余程残念な顔をしたらしく、家族にしばらく冷やかされたものだった。



 防波堤では、魚釣りやガニ取りもして遊んだが、もっと印象に残っている遊びがあった。遊びと言うより、一種の肝試しだったのだろう。今思うと、危険な遊びだった。
 港湾の入口には、赤と白の灯台を持った防波堤がある。私達の遊ぶ「白防波堤」は、結構な長さがあった。その先端の灯台に電気を送る為、電柱が等間隔で建っている。その根元はコンクリートで囲まれ、高さ50センチ位だったろうか。丁度いい足場となっていた。台風が過ぎ去った日は、波は堤防を越え、内海に入っていく。しかし、電柱の根元のコンクリートの高さまでは波は届かない。その波の来るタイミングを見計らいながら、コンクリート柱の足元にたどり着くように進んでいく。電柱に掴まりながら、次の波の大きさで進むか、我慢するか判断しなければならなかった。電柱の足元は、せいぜい二人位しか足の踏み場が無い。前のコンクリート柱に何人とどまっているのかというのも、進むかとどまるかの決断する要素であった。帰りも当然同じようにして、帰ってこなければならない。
 この遊びを振りかえると「男の子の遊びだったなー」と思う。




 小学校の帰り道に、魚の干場があった。登校する時は何もない広場だが、帰る時には一面に魚が干してあるのだった。サンマやアジを開いたのを天日乾燥する為だった。アジは小さくて食べたような気がしないのでしなかったが、サンマは一匹失敬して味見するのだった。脱脂した後で味がいい訳ではないのだが。
 魚の加工場では直径80センチ厚さ50センチくらいの円盤状の物が沢山作られていた。今思うとあれは魚の脂を取った後の肥料だったのではなかろうか。魚カスと言われたものだったのだろう。干されていたのも油っ気が無かったような気がする。
 また、鉄工場の暑い作業場で働く人たちが、シャツ一枚で、塩をなめながら仕事をするのも見た。自動車整備工場ではベアリングの球を見つけて喜んだり、カーバイトの余りを見つけて水に入れ、ガスの発生がまだあることを確かめたりして楽しんでいた。
 とにかく寄り道をしながら、いろんな事をして帰っていた小学校の時代だった



 新しい遊びが入ってきた時代だった。調べたら、ホッピングが昭和32年フラフープが昭和33年、ダッコちゃんが昭和35年にそれぞれ大流行した事になっている。
しかし、私の記憶は先にフラフープで、次にホッピングが続いているのだが、誤りだろうか。
 それまでは遊びにあまりお金をがけない時代だった。チャンバラだって木を切って遊び、あとはかくれんぼや手つなぎ鬼、たすけ鬼、ガラス玉、パタン(めんこ)。女の子はゴムとび、石蹴り、ままごとその他諸々。とにかくおこづかいをそんなに沢山与えられない時代だったのだ。
 しかし、この子供にとっての3種の遊び道具が入ってきてからは、遊びの様相が一変してしまったのではなかろうか。フラフープは特に女の子で流行り、ホッピングは男の子で流行った。しかしホッピングは遊び過ぎると胃下垂が起きるとかの噂が広まるのも早くて、いつの間にか遊びは廃れていった。




 日食があるとガラス板のかけらを見つけ、ろうそくの煤をガラス板にくっつける。すると、ガラス板に黒い部分が出来る。そこを利用して日食を観察。学校の理科の実験で教わったのではなく、遊びの集団で教わって、実行したのである。
 紙飛行機の作り方も、遊び集団の中で伝わっていた。三角飛行機、つばめ飛行機、新聞紙を使った兜の作り方、ゴム動力飛行機の竹ひごの曲げ方、ソリやコマやチャンバラの刀の作り方。肥後の守の使い方。道に松葉が落ちていると、その松葉を交互にして引っ張りあって、残った方が勝ちというたわいもない遊びに興じた。
 また学校で出来ない遊び、つまり物のやり取りを伴う「勝負の世界」の遊びも子供の集団には、沢山伝わっていた。ガラス玉(共通語で言うビー玉)や、パタン(釜石地方の固有の言葉?共通語で言うメンコ)やチェ(前述の遊び)で、技術を競って遊んだ。持っているガラス玉やパタンやチェの数が多いほど、余裕を持って勝負できるのだった。
現在は、子供集団が崩壊し、子ども文化も伝わらなくなってしまった。
 このような結果が、どのような社会の現状を生み出しているのか。見えてきたのは無いだろうか。




 
子ども達にもあだ名の数々があった。本名よりも「あだ名」の方が通りが良いのが、子ども達の世界だった。陰で言うのではなく、本人の前でも言うから、本人も認めていた世界だった。子どもの愛称だと思えばいいのだった。特徴があるからつけられたり、本人も知らないうちに付けられたり色んなケースがあった。
「ヤカン」というのは運動すると、すぐに頭から湯気をだすので付いていた。現在なら「瞬間湯沸かし器」とでも付くのだろうか。「オッペ」と言うのは尻尾の事であるが、なんでそのように付いたのか判らない。「ササギ」「ラッパ」も判らなかった。本人たちに何でそういうあだ名がついたのか聞いてみたかった。本人たちも判らないと答えただろう。  「ドンコ」は、今思うに、鼻がわるくて、蓄膿症気味だったのか。「トンガリ」は頭の後ろが絶壁だった。「サル」もいれば「ガイチャン」もいた。「ガイチャン」は痩せていたから、付いていたと思われる。
 しかし、昔の「ヤカン」みたいに、無心になって、そして汗をかくくらい、一生懸命遊ぶ子供たちの姿を見る事が皆無になった。また、あだ名も付くことが少なくなっているのではないだろうか。



 中学生の頃、親が漁師の同級生たちと海で遊ぶ機会があった。それは「伝馬船」を漕いで沖に出る遊びだった。勿論、親には内緒での無断の遊びである。「伝馬船」とは和船の小さな船の事である。5m位の船で、舟後部の艫(とも)に立って、人力で漕ぐ船である。現在は小さな船まで船外機が付属しているが、その時代の漁船は「焼き玉エンジン」が主力で「伝馬船」のような小さい船には、船外機そのものが存在しようもない時代であった。
 艫に立って、櫓(ろ)を漕がなければならないのであるが、櫓を漕ぐには要領があった。友達は腰と足と手をうまく使って上手に漕いでいた。見よう見まねで練習して、私も少しはうまくなった。8の字を横にした、すなわち無限大の字を描くような要領で手を動かせばいいのだが、その「8の字」の色んな場所によって、舟が傾くので、手と足の力に入れ具合のバランスが難しいのであった。手が手前に来た時と、体から離れる時の、足の踏ん張り具合と手の力の入れ具合が難しいのである。
 「櫂(かい)は3年、櫓は3月」と言う格言があることを後から知った。船を櫂で思うままに操るには3年かかるが、櫓はそれよりは簡単だという意味らしい。
「伝馬船」で製鉄所の桟橋まで行ったら、停泊中の外国船の船員が、手を振ってくれた事もあった。船の字は見たこともない字だった。先生に聞いて、それがギリシャ文字だという事を知った。
 そういえば、昨年(2007年)の11月13日に亡くなった、西鉄ライオンズの「神様、仏様、稲尾様」の投手稲尾和久氏は、小学5年生の頃から親父さんの漁業の手伝いで、「伝馬船」の櫓を漕いで、その強い足腰を作ったという有名な話を思い出した。毎日の「伝馬船」の作業は、小学5年生の彼にとって大変な事であったろう。しかしその鍛錬があったからこそ、栄光の日々が待っていたのだった。と、言う事は、釜石地方の漁師の子供たちも「稲尾様」並に足腰が強かったのではなかろうか?ただ、そのチャンスに恵まれなかっただけなのではないだろうか。
 時代の変化とともに「伝馬船」も見かけなくなってしまったが、もう一度漕いで、うまく出来るかどうか試してみたいなあと思っている。


 小学生の頃、手に「肥後の守」などで傷を作ると、ポケットの隅々から綿くずみたいなものを集めて、血止めとして、その傷に付けたものだった。他人の傷にも、自分や周りの友達のポケットから集めて押しつけたりしていた。即席の血止め用脱脂綿としたのだった。子供たちの知恵として伝わっていたのだ。
 また、冬場に手の指に「ひび割れ」が出来ると、その「ひび割れ」に糸を巻いた記憶がある。現在の衛生観念から見ると、綿くずを付けるのも、糸を巻くのも、かえってバイ菌が増え悪化しそうな気がするのだが、そんな事は露ほどにも考える事はなかった時代だったのだ。兎に角、血を止め、「ひび割れ」を最小限に食い止める事が先決だった。
 それにしても、「ひび割れ」を作った原因は何だったのだろうかが思い出せないのである。そんなに冷たい水に触っていた記憶が無いのである。確かに冬場に、学校の廊下に雑巾がけをする時は、最初はお湯で熱くても、段々に冷たくなっていったが、それが原因だとは考えられない。
 「ひび割れ」をインターネットで調べると、「寒さや水仕事などにより手指が血行不良になり、細胞に栄養が行き届かない状況が続くと、自分自身の力で修復できなくなる」とあった。
 これを見て最初は寒さの中、手袋もしないで長時間遊んだせいなのだろうか?と思ったりした。手袋して遊んだ記憶が無いのである。そして次に思ったのは、もしかして血行があったとしても、栄養が行き届かない状況だったのではないだろうかと考えたのである。栄養失調までいかなくとも、それに近い状態だったのではないだろうかとも考えられるからである。
 そういえば、あの時代、学校で先生が「カワイ肝油ドロップ」の注文を取っていた。ビタミンAとビタミンDの補給の為、特にビタミンD不足からの「くる病」の予防に、ドロップを食べましょうと、先生が言っていた時代だった。



 道路は遊び場だった。表道路でない限り、車の通行量が少ないのである。町内で自家用車を持っているのは個人病院の先生だけだった。猫を道路の真ん中に連れて行き、大の字に寝かせた事があった。車が通らないから猫はそのまま寝ていたほどである。車が来てから、猫も運転手も魂げる算段だった。
 道路に紐を張ってバトミントンをした事もあった。車が来れば、紐を外すのである。「石蹴り」「缶けり」「かくれんぼ」「三角野球」「鬼ごっこ」等色んな遊びが、道路を中心に興じられた。特に「缶けり」や「かくれんぼ」は、道路でなければ面白くない遊びだった。道路から各民家への小道が沢山あればあるほど、隠れ場所が多くなり、出入りする箇所が多くなって面白さを増すのだった。小道の裏でつながる別の場所から、缶けりの鬼の位置を窺ったりするのである。
 「父と子のキャッチボールのススメ」と言う本が売り出されているらしいが、昭和30年代は友だち、兄弟での道路でのキャッチボールであった。親は子供と遊ぶ余裕などなく忙しかったのである。もちろん道路だから、偶に車が来れば一時中止である。みんなピッチャーをやる方が面白いので、ピッチャーになりたがった。フォアボールを出したら交代というルールを決める。4人だったらピッチャー、キャッチャー、バッター、アンパイアで始める。最後はストライクかボールの判断で喧嘩別れとなる事もしばしばだった。


 「のぶたか―ご飯だぞー」と、のぶたかさんのお母さんが呼ぶまで、三角ベース野球をやっていた角の広場に、新しく家が建てられた。近所の家と違って、周囲がブロック塀で囲まれていた。製鉄所関連会社の釜石支店長宅であった。朝に支店長の迎えに、黒塗りの乗用車がやってくるのだった。   
 そこには、弟と同級生の女の子がいた。私と弟は4歳違いである。そして、その家から聞こえてくるのが、何と「ピアノ」の音だったのである。その女の子が、「ピアノ」を練習する「ピアノ」の音が、道路まで聞こえてくるのであった。周りで「ピアノ」を持っている家など見当たらなかった時代である。それも「オルガン」でなく「ピアノ」の練習を家でするのである。家庭教師が来ていたのか、お母さん(ママ?)が教えていたのかは定かでない。
 悪がき達は、その練習の光景を見たくて覗こうとしたのだったが、ブロック塀が高すぎて、練習の光景は見えなかったのだ。あまりにインパクトが強かったのか、その女の子の名前を、今でも覚えているのである。Y靖子さんである。
 私も釜石へ小学1年生の時に移民した訳だが、その後にも移民は絶えず、小学5年の頃、東京から移民してきた同級生の女の子がいた。その子の親も、製鉄所の関連会社の支店長であった。新たに家が建てられた訳であるが、屋根の角度が、地元の家と違って、急斜面なのであった。今までに見た事のない角度の屋根の勾配だったのである。そして屋根の高さが高いのであった。あれは冬場に雪が降った時に、雪が落ち易くする為だろうなあと、一人で解釈し、友達に解説していたのだった。
 「あの屋根の急な角度は、雪が屋根にたまらないようにする為だべなあ」
 正しかったかも知れないが、しかし東京でその頃流行していた雪とは関係ない家の形状のデザインだったかも知れないのである。


 学校の帰りは
「あーしたー、天気にーなーれ」
と空にズック靴を足から放りだしてやる。ズック靴が地面を転がって、上向きで「晴れ」、横向きで「曇り」、下向きで「雨」。みんなで、替り番に繰り返しながらの帰り道。
遊びでも通学でも、別れ際には相手の背中を
「さよなら三角、また来て四角」
と急いで叩いて逃げる。すると、相手も追いかけてきて、
「さよなら三角、また来て四角」
何度か繰り返しての別れとなる。
喧嘩別れの時は何故か
「お前の母さん、でべそ」
とやると、相手は
「おまえの母さんも、でべそ」
とやり返す。すると、今度は
「お前の父さん、でべそ」
「お前の父さんも、でべそ」
「兄さん」や「ねえさん」が出てくる時もある。
女の子の場合は、太っていなくとも
「デブー、デブー百貫デブー」
「デブー、デブー百貫デブー」
と囃すと女の子は
「あっかんべーだ」
と言って別れたりしていた。


 雑誌「少年」の付録に「少年探偵手帳」があった。少年探偵団の団員である事を示す「BD」バッチというのもあった。探偵手帳には、「手旗信号」「モールス信号」「暗号の作り方」とかがあった。「秘密インクの作り方」と言うのもあった。確か秘密インクと言うのは、炙(あぶ)ると字がでてくるという物だった。
 それらより、印象強く残っているのが、船の煙突のマークの事である。「少年探偵手帳」には、何と「船の煙突のマーク」(ファンネルマーク)が掲載されていたのでした。船会社の所属を示す、煙突のマークが、カラーで印刷されたページがあったのです。
 そして製鉄所の桟橋に入港する船を、通学路からいつも少年探偵はチェックしていたのです。新しい船が入港する度に,「少年探偵手帳」を開いて、入港した船の煙突をチェックし、どこの会社の船であるかを、調査する探偵に変身していたのでした。 当然、外国船の会社の船のマークは無い訳で、探偵の調査は日本の船に限られているのでした。手帳のマークと合致した船が入港していると、微笑みを浮かべる少年探偵でした。
 その中の一隻に、「三豪丸」という緑色の大きな鉄鉱石輸送船があったのです。定期的に釜石とオーストラリア(豪州)を往来していた船です。「三豪丸」が入港して沖待ちする姿を見る度に、少年探偵は、船乗りになって、豪州へ行く夢を見るのでした。


 何だったのだろう、あの囃し歌は。
「♪ ソーダやの
   ソーダさんが
   ソーダ食って死んだソーダ
   葬式まんじゅう
   うんめえソーダ」
この歌を早口で歌うのを競った。
どこの誰が、文句を考えたのか?
どの地域まで通用する歌だったのか?
それとも日本全国に共通する子どもの歌だったのか?
まだ、続きがあるのか?
今となると、全然判らない歌だが、小学校低学年時に確かに歌っていた。


 雪が降っての遊びは、山に行っての「そり遊び」だった。雪が降っても、飽きるまで繰り返し遊んでいた。「そり」そのものから、みんながそれぞれ手作りである。
 そして「そり遊び」は、山のどこでもできる訳でなく、斜面があって滑っても、最後はスピードが緩んで止まる位の平らな場所がある所でなければならなかった。斜面の道を踏み固め、滑り易くする。そりの紐を握って、尻をそりに載せ、上半身を地面と平行になるぐらいにして、足先でそりの方向をコントロールするのだった。この足先のコントロールには、ちょっとした要領が必要だった。そして途中に小さなジャンプ台を作る。上から滑ってきて、スピードが出るあたりで、そりがジャンプするように高さが30センチ位の雪山の突起を作るのである。そこに来ると、そりは見事にジャンプするのだった。お尻が痛くなる時もあった。ただ、そりの作りが、弱かったりすると、ジャンプして着地した時に壊れてしまうのだった。みんなで大笑いである。また、何回もやっていると、同様に壊れるのだった。


 「たすけ鬼」の中にも書いた遊びだが、漁師がイカ釣りに使う道具の「つの」を使った遊びがあった。正確には「つの」の針のないエボナイトの部分を机の上で転がして遊ぶのである。横に転がすのではなく、縦に連続して転がして遊ぶのである。「つの」にはカラフルなのが多かった。「つの」を机の上と手のひらの間を転がすのには要領があって、連続して転がすのは難しかった。「つの」は円筒形なのだが、微妙に楕円を帯びていて、重心の位置が中心からずれているのである。その為、一回ごとに手のひらに加える力を加減しなければうまく回転しないのだった。
 しかし、漁師町の子供らしい遊びであった。誰が、最初にこういう遊び方を見つけたのか?また、この遊びがどの範囲まで通用したのだろうか?住んでいた所だけの遊びだったかもしれない。
 なお、現在の「つの」は、軟質プラスチックの為、昔のように転がす事が出来なかった。


 昭和30年代前半の子供たちの遊びの数々(「たすけ鬼」の目次より)

(T)  集団での遊び
1 たすけ鬼
2 手つなぎ鬼
3 ひょうたん鬼
4 馬っこ乗り
5 三角ベース野球
6 押しくら饅頭
7 缶蹴り
8 かくれんぼ
9 縄跳び
10 達磨さんが転んだ
11 影踏み
12 陣取り合戦

(U) 少人数での遊び
1 釘刺し
2 ガラス玉
3 ガラス玉(星ルール)
4 ガラス玉(その他)
5  石蹴り
6  陣取り
7  笹船遊び
8  ドン(バクダン遊び)
9  パタン
10  秘密基地
11 手合わせ
12 つる遊び

(V) 手作りでの遊び
1 紙飛行機
2 ゴム動力飛行機
3 竹(杉)鉄砲
4 水鉄砲
5 竹馬
6 竹スキー
7 竹トンボ
8 トンボ捕り
9 そり
10 凧揚げ
11 缶馬
12 コマ回し
13 ちゃんばら
14 カンテラ遊び
15 タガ回し


 スズメを飼った事があった。正確には飼ったというまではいかなかったのだが?というのも、子スズメを飼うのに失敗したからである。その子スズメは、巣から落ちたのを、拾ってきたのではなかったかな。当時は瓦屋根が多く、その隙間に、スズメたちは巣を作っていた。後から思うに、水を与える時に、綿棒みたいなもので水を与えればよかったのだが、くちばしをそのまま、水に入れたのだった。ところがくちばしの根元には、小さな穴が両脇についていたのだった。そこに水が入って抜けなくなった事が、スズメの死因だったのではないだろうか?と思った事を覚えている。
 少し上の世代は、メジロを飼って、夕方には摺り餌を作るのが日課だった。カナリアを飼っている大人もいた。


 釜石に引っ越した頃は、猫は飼っていなかった。しかし、オヤジさんが好きだったのか、猫に関する思い出も多い。真黒な猫や、トラ猫や三毛もいた。天井に向かって宙返りさせて遊んだりしていた。おもちゃ代わりになっていたのかもしれない。道路に大の字に寝せておいたら、小型トラックが来るまでそのままで、運転手がびっくりしていた。道路をはさんで、向かいの家の井戸の裏側にスズメが入ったのを見ていた猫の背中を押したら、見事にスズメを銜えたのだった。
 印象深い出来事もあった。子猫を産んだ親猫ともども、親父さんは自転車で捨てに行ったのだが、2,3日してから、1匹ずつ子猫を連れて帰って来たのであった。「犬は人に懐き、猫は家に懐く」という格言?を信じなければならなかった。
 後日、猫を捨てる時は、橋を渡らなければ駄目だというのを聞いたのだった。確かに、親父さんが捨てに行った場所までには橋がなかった。


 火薬を、色々使った遊びがあった。
コルト型鉄砲用の火薬があった。火薬が巻物状の台紙の上に薄紙に包まれて、幅が7ミリくらいで1センチおきくらいに小さな山になっている、鉄砲にセットすると、レバーを引くたびに火薬紙の巻物は順次、送られて連続音がするのだった。
 癇癪玉というのもあって、壁やアスファルトにぶつけて、爆発音を出して楽しんでいた。
 また、1センチ四方の切り取りがある、火薬の紙もあった。それを切り取って、器具にセットする。
 空に向けて投げて、落ちてきた時に爆発する器具もあった。羽が付いていて、火薬をはさむ部分があった。
 また、2B弾は、いつまで持っていられるかという肝試し的な要素もあったし、ガラスの牛乳瓶に入れたり、水中に入れて遊んだような思い出がある。
 現在は、危険だからという理由なのか、そういう火薬類は見かける事もない。火薬類の遊びをとおして、発生する音を楽しんでいたのかな。
 そういえば、火薬は使用しないが「銀玉鉄砲」というのもあった。銀玉は直径5から6ミリくらいで表面は銀色だが、中身は粘土だったような気がする。専用の鉄砲で打ち合いをしていた。







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